駿河 安倍城
Abe castle

安倍城跡【静岡県静岡市葵区羽鳥・内牧・慈悲尾】
 洞慶院【静岡県静岡市葵区羽鳥7丁目21-9】
 増善寺【静岡県静岡市葵区慈悲尾302】

【立地】山城
【別称】安部城・安部本城・慈悲尾山城

【歴史】築城年は定かではない。標高435m、比高380mの山頂に築かれた山城である
。南北朝時代(1337~1392年)初期、安倍城は南朝方狩野介貞長の居城であり、本
拠地は安倍城から北に延びる尾根先の内牧城であったと云う。狩野氏は「承平天慶の乱」で
東国へ下った藤原為憲の子孫とされ、貞長の代で後醍醐天皇の武者所の宿衛を勤め、133
6年4月武者所結番に組み入れられて京都に住んだ。築城はこの頃と考えられる。足利尊氏
と後醍醐天皇が対立すると、貞長は安倍城へ戻って増強し、南朝方として今川範国と対立し
た。足利方の今川範国は、1338年9月遠江の南朝井伊氏の諸城を攻撃、10月28日安
倍城を攻撃。1339年範国に代わって遠江守護となった仁木義長、足利尊氏の武将高師泰
・師冬らが井伊氏の支城鴨江・千頭峯城を攻撃、1340年井伊氏の本城三岳城を落とした
。宗良親王は井伊氏と共に大平城へ退却し、ここも8月に落城して遠江の南朝勢は完全に力
を失った。興国年間(1340~1346年)、宗良・興良〔護良親王皇子〕が相次いで安
倍城へ入城。1350年足利尊氏の弟直義と高一族の反目に端を発した「観応の擾乱」は、
尊氏・直義兄弟の対決に発展し、両派の対立が南朝も巻き込んで激しい抗争となった。12
月24日狩野孫左衛門尉、石塔義房の家人佐竹兵庫亮・中山左衛門尉らが府中を攻撃、13
51年9月27日手越河原に両軍が激突、11月16日府中を占領した直義方を今川勢が追
っている。12月薩埵峠で尊氏が直義方を破り、1352年正月尊氏は鎌倉に入り、直義を
降服させ、2月に毒殺して「観応の擾乱」は終結した。2月24日今川範氏は尊氏より駿河
南朝攻略を命ぜられ、8月石塔義房の家人佐竹兵庫入道・藁科氏らが籠る大津城を9月に落
とし、続いて1353年2月18夜襲によって徳山城を落とした。以後、今川氏は大津城を
居城とし、駿河における南朝方の武将は狩野氏のみとなった。狩野氏は孤立しながらも今川
氏に敵対し、今川氏に内紛があった時は、駿府にまで攻め入るほどであったが、遠州の同族
狩野宮内少輔が今川氏に屈服した為、1433年安倍城が攻め落とされた。現在は山林とな
り、曲輪、堀切が残る。


【所感】安倍城跡の登城道は①内牧・西ヶ谷、②増善寺、③洞慶院の3つが有り、私は駐車
場・トイレが完備されている洞慶院から登り、久住砦跡を経て、安倍城跡へ向かいました。
安倍城跡は東西に曲輪が並ぶ縄張りで、曲輪を囲む土塁は見当たりません。主郭の東側は一
段下がって小曲輪、更に一段下がって、長い曲輪を大小2条の堀切が仕切る形になっており
、東端の曲輪から登城道①と②に分かれます。主郭の西側は二段の腰曲輪、次に下り傾斜の
登城道に沿って南側に土塁状のものが続いていますが、この土塁が遺構かは不明です。更に
西尾根まで下ると、堀切が1本あります。主郭からの眺めは最高で、正面に静岡市街地や賤
機山城、左手に富士山(頭だけ)、右手に安部川・駿河湾が見え、暫く眺めてしまうほど高
所に在ります。久住砦跡の遺構撮影も含めて往路2時間、帰りも再び遺構撮影をしながら復
路2時間弱。達成感と満足感、そして、筋肉痛の登城でした。














登城道



鉄塔・久住砦跡



久住砦跡の主郭





久住砦跡から東へ下りた細い尾根・安倍城跡の西尾根





安倍城跡西尾根の堀切C





南側が土塁状になっている長い曲輪3




主郭西側の曲輪2



主郭西側の曲輪1





主郭



主郭から見た静岡市街



主郭東側の曲輪1





主郭東側の長い曲輪2



主郭東尾根の堀切A



主郭東尾根の浅い堀切B





安倍城跡東端の曲輪



今川氏親公の墓・増善寺