遠江 天方城
Amagata castle

城ヶ平公園・天方新城【静岡県周智郡森町向天方】
マル七株式会社島商店【静岡県周智郡森町向天方874−2】
       蔵雲院【静岡県周智郡森町大鳥居540−1】
      天方古城【静岡県周智郡森町大鳥居】

【立地】山城
【別称】天方新城

【歴史】1568年、城ヶ平〔標高248m〕に天方山城守通興が築いたとされる。天方新
城の前身となる天方古城〔森町大鳥居・標高150m程〕は、応永年間(1393〜142
8年)、山内対馬守道美によって築かれ、飯田郷へ進出して飯田古城を築き、1401年弟
の山城守に譲ったと云う。山内豊後守道秀の代で天方古城に住んで天方氏を称し、その後、
通良−通泰−通員−通季−通稙−通興と続いた。1560年今川義元没後、1568年家康
は遠州へ侵出し、次々と諸城を攻略する中、今川の勇将天方通興は家康の忠告に従わず、1
569年榊原康政・天野康景・大久保忠隣らの攻撃を受けて降伏。1570年10月家康の
命に従わず再び立て籠もった為、大須賀康高・榊原康政らの攻撃で落城した。1572年9
月武田信玄の遠州進出の際は戦わずして落城、信玄は久野弾正忠宗を残して天方通興と共に
護らせた。翌1573年3月家康は平岩親吉に天方城を攻撃させ、久野弾正忠宗を甲州に追
い遣る。再度、甲州の持城となったが、1574年3月家康は遠州の軍勢を率いて天方城を
攻め落とし、城に軍兵を置いたと云う。1579年通興の子通綱は、家康の嫡男信康が二俣
城で自害の際、服部半蔵正成と共に介錯人を務めたが、自責の念に駆られて高野山で仏門に
入った。その後、越前の松平秀康に仕え、越前天方氏の宗家となり、子孫は明治まで松平氏
に仕えた。通興は天方家の存続させる為、外孫の通直(青山播磨守忠成の五男)を養子とし
た。通直は幼少より家康に奉仕して、1614年「大坂冬の陣」に供奉、1615年「大坂
夏の陣」では徳川秀忠に従って「天王寺の戦い」で戦功を挙げた。通直より四代後の成展の
時、青山氏に改姓。廃城年は、1597年通興没後、間もなくとされる。現在は城ヶ平公園
の名で整備され、曲輪、土塁、横掘が残る。

【所感】島商店〔お茶屋〕から100m程東進した丁字路〔建物〕に天方城跡・城ヶ平公園
の看板・標柱が有り、ここを左折して2キロ弱、山林・茶畑内を車で上った行きます。城跡
は整備された駐車場・トイレが設けられ、本曲輪内には滑り台・ブランコ・雲梯、西側に展
望台もあって城ヶ平公園と呼ばれている理由が分かります。天方城跡の見所は何と行っても
本曲輪を囲む横堀と土塁。二の曲輪も浅いですが、見て分かる横堀が残っています。グーグ
ルで確認すると分かると思いますが、城ヶ平公園〔天方城跡〕は蔵雲院方面からも上る道が
有ります。天方古城は天方新城の北2キロ程の天方小学校・八幡社背後山とされます。





天方城跡碑・二の曲輪









本曲輪



本曲輪から見た展望台と森町の市街地



本曲輪南東の竪堀





本曲輪の土塁



















本曲輪を囲む内堀




二の曲輪














二の曲輪を囲む外堀