三河 雨提砦
Amezutsumi fort

雨提砦跡【愛知県新城市愛郷字雨提】

【立地】山城
【別称】恩原城・雨提城・恩原村古城

【歴史】天文年間(1532〜1555年)、標高350m、比高180mの山頂に築かれ
た山河清兵衛重常の居城とされる。重常は田峯城主菅沼定継の家臣で、家老城所道寿の叔母
(資信の長女)を妻に娶っている。1556年「布里の戦い」では、菅沼一族内で織田方、
今川方に分裂し、織田方の田峯菅沼定継、菅沼定久、菅沼定圓、作手奥平貞勝、島田筒井源
勝、筒井但路、滝川久八、海老の佐野入道らに対し、今川方の布里菅沼定直、大野菅沼定氏
、井代菅沼定仙、双瀬の林左京らが対峙した。初め、定継勢は定直らを撃破して優勢であっ
たが、奥平貞勝が「雨山の戦い」で今川援軍に敗れて降伏した為、孤軍となった田峯の菅沼
定継、島田の菅沼定盛、定房、雨提の山河清兵衛重常らは布里クロヌタで自決した。この後
、城所道寿の子信忠が入った。1575年「長篠、設楽ヶ原の戦い」では菅沼定継は武田方
に参戦したが、織田・徳川連合軍に敗れた為、信州へ退去した。信忠は参戦せずして敗れた
為、雨提の城を捨てて山中村へ身を隠していたが、後に恩原村へ戻って帰農し、廃城となっ
た。現在は山林となり、曲輪、堀、土塁が残る。


【所感】豊川と当貝津川の合流点であり、国道257号線と県道420号線の分岐点から1
500m程南下した左手のミヤビ電工辺りで、右の県道435号線へ入ります。600m程
進むと、左手に脇道が在り、入口に雨提城の歴史看板が立っています。道なりに進むと、雨
提の集落に出、NTT・DoKoMo東海・鳳来愛郷無線局の鉄塔を過ぎた右手の民家裏の
山頂が砦跡になります。民家横から山道が在りますが、現地の人の話では現在は山林で、祠
が在るそうです。



 

雨提城の歴史看板・雨提集落への道〔写真:左〕雨提砦跡遠景〔写真:右〕