三河 麻生城
Aso castle

麻生古城跡【愛知県岡崎市鍛埜町神谷倉】
 麻生城跡【愛知県岡崎市桜形町向】
山内工業所【愛知県岡崎市桜形町向31−1】
 阿弥陀寺【愛知県岡崎市桜形町前田13】
  大泉寺【愛知県岡崎市鍛埜町中切69】

【立地】丘城

【滝脇松平家】乗清 ― 乗遠 ― 乗高 ― 乗次 ― 正勝 = 重信 = 信孝 = 信治 = 信嵩 −
       昌信 = 信義 ― 信圭 ― 信友 = 信賢 = 信進 = 信書 = 信敏

【麻生松平家】乗清 ― 親正 ― 清房 ― 正忠 ― 正勝 = 重信 = 信孝 = 信治 = 信嵩 −
       昌信 = 信義 ― 信圭 ― 信友 = 信賢 = 信進 = 信書 = 信敏

【歴史】伝承地であり、確証は無い。築城年は定かではない。標高202m、比高20mの尾根端に築
かれ、麻生内蔵助の居城とされる。1415年松平宗家初代親氏の中山七名〔秦梨・田口・岩戸・麻生
・大林・名之内・柳田〕買得で落城となる。その後、天野弥九郎景孝がこの地を領したが、1487年
松平宗家4代親忠が攻め落とし、松平宗家4代親忠の九男乗清〔大給松平家初代乗元の子とする説も〕
が滝脇へ移住し、滝脇松平家、麻生松平家の祖となる。その後、2代親正−3代清房−4代正忠−5代
正勝と続く。1590年廃城。3代清房の弟現之丞は阿弥陀寺の住職となり、5代正勝は、1615年
「大坂夏の陣」で討死し、阿弥陀寺に葬られた。6代重信は徳川将軍家2代秀忠の時、5000石で駿
府城代、7代信孝は江戸幕府の若年寄として埼玉、群馬内で1万石の大名になった。1704年8代信
治は1万石で駿河小島藩主となり、その後、信嵩−昌信−信義−信圭−信友−信賢−信進−信書を経て
、1868年17代信敏は麻生氏を改め「滝脇松平氏」と称した。現在、麻生古城跡は梅林となり、墓
と平地が在る。麻生城は松平助十郎御先祖墓所の背後の山林とされるが、遺構は無い。

【所感】大泉寺から県道35号線を250m程東進した左手の乙川に架かる小橋を渡り、直ぐに左へ曲
がります。突き当たりのお宅の右手に麻生古城跡の入口が在りますが、住人の迷惑にならないように手
前の何処かに駐車します。城跡へ入る際は必ず住人の方に承諾を得て下さい。杉に囲まれた平坦地の入
口に五輪塔が並び、その他は梅林になっています。麻生城跡は山内工業所の隣りに在る「松平助十郎御
先祖墓所」の背後辺りとされます。この墓所は石積みで2段になっており、30余基の墓石が立ち並ん
でいます。助十郎とは最期の城主助十郎正勝のことであり、1617年5月麻生松平家の家臣小畑又左
衛門が造ったものだそうです。




麻生古城跡と一石五輪塔


 

松平助十郎御先祖墓所・麻生城伝承地の南



麻生城主の墓・阿弥陀寺・正忠公の奥方〔左〕麻生松平家4代正忠〔中央〕正忠公の長男正秀〔右〕