三河 足助城
Asuke castle


城跡公園足助城【愛知県豊田市足助町須沢39−2】
  足助中学校【愛知県豊田市足助町梶平58】

【立地】山城
【別称】真弓山城・松山城

【歴史】15世紀後期、鈴木忠親が真弓山〔標高301m、比高170m〕に築いた城で、
その後、重政→重直→信重→康重の居城となる。平安時代後期〜南北朝時代は足助氏の勢力
下であったが、室町時代、三河国高橋荘中条氏の被官として鈴木氏が豊田、加茂周辺を領し
たと云う。1525年松平清康〔家康の祖父〕が2000の兵を率いて足助に迫るが、2代
重政は松平清康の妹を3代重直の妻にすることで松平家に属した。1535年「守山崩れ」
で松平清康が亡くなると、松平氏を離れて独立し、妻久子は岡崎へ送り返された。1554
年今川方の城となるが、1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると、再び、松平
氏〔松平元康〕に従属した。1571年武田信玄が2万3千の兵を率いて伊奈口から三河へ
乱入すると、足助城、周辺諸城は全て落城となり、城代として下条伊豆守が入った。157
3年家康の長男信康が足助城を攻略し、鈴木氏が城主に復帰。1581年「高天神城の戦い
」で小原城主鈴木越中守重愛と共に奮戦。1590年5代康重の時、家康関東移封に伴って
移り、廃城となる。康重は関東での処遇に不満を持ち、改易になっている。現在は史跡公園
となり、曲輪、堀切、井戸跡、櫓台などが残り、発掘調査を基に往時の建物〔高櫓、長屋、
物見台など〕が想定復元されている。

【所感】飯盛山城の東隣りに足助城が在ります。国道153号線から国道420号線を入り
、350m程走った左の脇道を入ります。足助中学校南側の道で「足助城」の標柱が目印で
す。800m程曲がりくねった坂道を上ると、左手に足助城の入口が在ります。アスファル
トの駐車場が有り、入場料を払います。入口の冠木門を潜って右へ折れると、正面の南の丸
に柵と厨が見えます。ここから標柱の順序に従って曲輪、遺構を周り、最後に本丸に到着し
ます。本丸からは遠くに黍生城跡、眼下に国道153号線と足助の町並みが見えます。また
、周辺には足助七屋敷と呼ばれる城も存在します。愛知県で建物が建つ城跡は多くありませ
んが、戦国の城を学びたいなら足助城を推薦します。





足助城入口の冠木門



南の丸の切岸



南の丸腰曲輪1



南の丸腰曲輪2



西の丸南の井戸跡



西の丸腰曲輪1



西の丸入口





西の丸



西物見台と塀・西の丸



本丸腰曲輪3



はねあげ戸とカマド小屋・南の丸



厨1と厨2・南の丸



上から見た南の丸の厨2



厨2の内部



厨1の南面・南の丸





厨1の内部



南物見台



本丸−南物見台間の堀切







本丸の長屋と高櫓





長屋の内部





高櫓1階の広間と土間



高櫓1階の居間



高櫓1階の火縄銃



高櫓1階付櫓の厠



高櫓2階の座敷



柿葺きの屋根



本丸腰曲輪1



北腰曲輪1



北腰曲輪2



北腰曲輪1と北腰曲輪2