三河 浅谷城
Azakai castle

 浅谷城跡【愛知県豊田市山谷町日影洞・裏山】
足助中学校【愛知県豊田市足助町梶平58】
  足助城【愛知県豊田市足助町須沢39−2】
  万昌院【愛知県豊田市山谷町日向道下16】
  平勝寺【愛知県豊田市綾渡町奥12】

【立地】山城
【別称】浅ヶ谷城

【歴史】築城年は定かではない。城山〔標高420m、比高40m〕の尾根端に築かれた簗瀬氏の居城
とされる。山ヶ谷村〔鶏足城も含む〕を拠点とし、1550年今川氏に降ることなく独立してこの地を
治めていたが、1564年家康の軍門に降る。1571年武田勢が大軍を率いて足助城、及び、周辺の
諸城を攻められるが、戦わずして落城。浅谷城に於いても、田峯城主菅沼定忠を先鋒とする武田勢が攻
められ、次男信弘が田峯に囚われの身となった。信弘は後に田峯の家老城所道寿の娘婿となり、城所に
姓を改め、田峯に住んだ。1575年「長篠、設楽ヶ原の戦い」に信弘も武田軍として出陣したが、大
敗した城所道寿、その子信晴らと共に武田勝頼に従い、信濃国飯田辺りで離散した。信弘も何れかに隠
住していたが、後に帰農して田峯に住み、城所姓を捨て旧姓簗瀬を柳瀬に改めた。現在は曲輪、堀切、
土塁が残る。「足助七屋敷の一」

【所感】国道153号線から国道420号線へ入り、350m程進んだ足助中学校の南側の坂道から先
ず足助城へ向います。「足助城」と書かれた案内板に従って曲がりくねった坂道を800m程進むと、
足助城の入口に到着。ここから更に平勝寺方面へ1300m程走った「鶏足城址」の案内板が立つ二又
路を右へ進みます。この後、脇道が多くなりますが、道なりに1300m程走ると、「万昌院・浅谷城
址→」と書かれた案内板が立つ二又路が在り、ここを矢印に従って右の坂道を下ります。300m程下
った二又路を右へ行ったアスファルト路の終わりが浅谷城跡の入口です。駐車場とは書いてありません
が車が3台程停められます。直ぐ脇の「浅谷城址入口170mを登る」の看板の場所から城跡へ入りま
すが、170mは本曲輪までの距離と思われます。丸太段を登り切ると、先ず細長い小さな腰曲輪が在
り、もう一段上の腰曲輪は本曲輪の北側を覆う広い曲輪となっています。本曲輪は南北に細長く、南側
には小さな堀切と狭い物見曲輪が在ります。本曲輪の西側は腰曲輪が三段在り、西端は堀切で終わって
います。本曲輪の東側は中央部の石も含めた大堀切が在り、城郭東端にも立派な堀切と堀切から北へ落
ちる竪堀が在ります。以前は道中の案内板・駐車場・城内の丸太段・本曲輪の縄張り図や歴史看板など
は全く有りませんでしたが、今回、しっかり整備されていたので、大変嬉しくと思いました。


 

万昌院・浅谷城址500mの看板〔写真:左〕万昌院・浅谷城址200mの看板〔写真:右〕

 

城跡入口〔写真:左〕本曲輪までの登城道〔写真:右〕

 

丸太段を登り切った最初の腰曲輪〔写真:左〕本曲輪北側の腰曲輪・第2の曲輪〔写真:右〕

 

本曲輪北〔写真:左〕本曲輪南〔写真:右〕

 

主郭南側の堀切〔写真:左〕城郭南端の物見曲輪〔写真:右〕



本曲輪東側の大堀切

 

本曲輪西側の腰曲輪〔写真:左〕城郭西端の掘切〔写真:右〕



城郭東端の堀切