駿河 奉行屋敷
Bugyo residence
奉行屋敷跡【静岡県静岡市葵区梅ヶ島】
魚魚の里【静岡県静岡市葵区梅ヶ島5036−2】
梅ヶ島新田温泉黄金の湯【静岡県静岡市葵区梅ヶ島5342−3】
【立地】平地
【歴史】1600年「関ヶ原の戦い」の後、駿河国内における幕領支配は長谷川長綱・井出
志摩守正次〔駿府町奉行兼任〕・彦坂光正〔駿府町奉行兼任〕・村上吉正が担当しており、
井出正次は梅ヶ島の日影沢金山を管理する為、金山奉行屋敷や鏈御蔵と呼ばれる金鉱石の貯
蔵所が建てた。日影沢金山で産出された金は駿府の金座で慶長小判が製造され、金座の長官
後藤庄三郎光次が墨書し、金品位を保証したので、「駿河墨書小判」と云われた。1684
年駿府町人が28名が代官近山六左衛門を通じ、江戸勘定奉行の許可を得て日影沢金山の開
発を企画した。呉服町三丁目難波屋仁兵衛を筆頭に本通り敦賀屋、桑名屋など、その後、後
々まで金山の開発に尽くした。修訂駿河国新風土記には、「往古より黄金の多く出したる抗
は梅ヶ島日蔭沢なる長盛鋪と云る鋪大なる抗にて桑名屋六郎兵衛が堀し所なりといふ、長盛
鋪の大天井と全体ありし所は方二間余りの抗、今にに存ず」と書いている。長盛鋪〔鋪とは
坑道のこと、間歩とも云う〕全長370間〔約666m〕にも及び坑内には鍾乳石化した所
があり、昭和初期まで入坑出来た。金含有量は5kg/tという金鉱石が産出され、良質で
ある為、「江戸幕府細工所御用」になった。1686年遠州中泉代官近山六左衛門支配の時
、代官の自費で再建された。奉行屋敷には代官の手代が常勤、梅ヶ島村の行政指導や金山の
監督を行っていた。現在は奉行屋敷跡の看板と東屋が建つが、遺構は無い。
【所感】グーグルマップにも載っていますが、奉行屋敷跡は安部川と日影沢の合流点、「梅
ヶ島新田温泉 黄金の湯」と「魚魚の里」間にあります。私は日影沢〔魚魚の里側〕で川幅
が狭いポイントを探して跳び越えて渡りました。撮影で橋無き川を渡るのは初めてです。奉
行屋敷を設ける基になった日影沢金山跡は、魚魚の里から日影沢沿いの道を上流へ進み、か
えで橋を潜る丸太階段を上ります。上ったら左の千秋橋を渡り、暫く歩き、右手の長盛鋪跡
の看板から10m程歩いた長盛橋から右を見ると坑道の入口があります。道中、一度も日影
沢金山跡へ案内する看板が無かったので、間違えて八幡神社跡へ行ったり、坑道口を通り過
ぎて山神様まで行ったり、無駄な時間を使ってしまいました。ヒルには気を付けて下さい。
私は足を噛まれてしまいました。

奉行屋敷跡の看板




魚魚の里→日影沢金山跡〔長盛鋪跡〕への道

日影沢金山跡・長盛鋪跡
