肥前 深江城
Fukae castle

 深江城跡【長崎県南島原市深江町丙】
しろの病院【長崎県南島原市深江町丙540−1】

【立地】平城

【歴史】築城年は定かではない。土豪有馬深江氏の所領であったが、文永年間(1264〜
1275年)、幕府の引付奉行の安富奉嗣が肥前国高来郡東郷荘深江村の地頭職となり、そ
の嫡子左近将監頼泰が鎮西引付衆の一員に加わって九州に下向し、深江村に住んで深江氏を
称した。その後、兵部丞泰長−次郎泰重と継がれ、居館を構えていたが、勢力の拡大ととも
に城が築かれたとされる。1582年安富下野守純泰は、一時、肥後横島城の城番であった
が、1584年正月島津氏が安富伯耆守純治が守る深江城を攻めた。留守を預かる安富下野
守純泰・加番安武式部大夫家教・横岳兵庫頭家実らはよく防戦したが、新手の新納武蔵守忠
元が加勢で降った。評定の結果、島津勢は安徳上野介の安徳城へ入り、深江城は神代城主神
代治部大夫貴茂が入った。安富氏は龍造寺隆信が討死すると、佐賀に移って深江下野守を称
し、その子孫は鹿児島藩に仕えたと云う。1637年11月26日、城代家老岡本新兵衛が
護る島原城に有馬村・深江村・三会村のキリシタン農民6000人が攻めて来たが、成らず
と見るや、深江城へ入って籠城したと云う。現在は住宅、畑地に変わり、遺構は無い。

【所感】しろの病院が在る国道251号線須ノ崎信号丁字路を西へ曲がり、550m進んだ
左手に深江城跡の石碑と看板が建ってます。東の薬師川、西の畦津川、南の深江川に囲まれ
た城跡碑の場所は、本丸の西端と思われ、本丸の北側で薬師川と畦津川に挟まれた地が二の
丸、本丸の南側で熊野神社辺りが出丸とされます。雲仙の山々の裾野に位置し、道は緩やか
な坂道になっています。




深江城跡の石碑と歴史看板