築前 福岡城
Fukuoka castle

               福岡城跡【福岡県福岡市中央区城内】
福岡城 鴻臚館案内処「三の丸スクエア」【福岡県福岡市中央区城内2−5】

【立地】平山城
【別称】舞鶴城

【国指定史跡】福岡城跡
【国重要文化財】福岡城南丸多聞櫓
【県指定文化財】潮見櫓・祈念櫓・旧母里太兵衛邸長屋門
【市指定文化財】名島門

【歴史】1600年「関ヶ原の戦い」の戦功により、中津城主黒田長政は筑前一国と肥後・
筑後国各2郡50万2400石を得て、小早川隆景築城の名島城〔福岡市東区〕へ入り、福
岡藩を立藩した。1601年博多湾を臨む那珂郡警固村福崎の地に福岡城の築城を始める。
普請奉行は黒田家二十四騎の一人である野口佐助一成が任ぜられ、1607年竣工。出来上
がった城は黒田氏の発祥地備前国福岡〔岡山県瀬戸内市長船町福岡〕に因んで「福岡城」と
名付けられた。1623年長政没後、嫡男忠之に継がれ、長政の遺言により三男長興に秋月
藩5万石、四男高政に東蓮寺藩4万石を分与、福岡藩は41万2400石となる。長政は父
黒田如水〔孝高〕以来黒田家に仕えてきた大身の改易・減封を実施、忠之も同様に推し進め
たが、新参の寵愛小姓倉八十太夫を1万石の重職に抜擢したことで、譜代大身との関係が悪
化、次第に藩政は乱れていった。そこで筆頭家老の栗山大膳は、失政による藩の取り潰しを
畏れて謀計を巡らし、1632年忠之に謀叛の意志ありと幕府に訴え出た為、御家騒動が起
きた。幕府の調査の結果、忠之に謀叛の意志は無かったことが判明し、除封を免れ、倉八氏
は高野山へ追放、栗山氏は陸奥国盛岡藩南部家の預かりとなった。これを「黒田騒動」と云
う。1637年「島原の乱」の際、忠之は支藩と共に1万3000余人の鎮圧軍を差し出し
、1641年長崎警備を命ぜられ、佐賀藩と1年交替で務めた。その後、1654年光之−
1688年綱政に継がれ、弟長清に新田5万石を分与して直方藩を再興。1711年宣政−
1719年継高−1769年治之−1782年治高−1782年斎隆−1795年長順−1
834年斉清−1858年長溥と続き、1868年「戊辰戦争」では新政府軍として参陣、
藩兵2300人を派遣した。1869年長溥は伊勢国津藩主藤堂高猷の次男長知に家督を譲
り、1871年廃藩置県を迎える。1957年国史跡に指定、1971年南丸多聞櫓が国重
要文化財に指定される。現在は鶴舞公園と称され、1972年南丸北隅櫓・2008年下之
橋御門が復元され、曲輪、石垣、多聞櫓・隅櫓、土塁、井戸跡、堀などが残る。

【所感】三の丸スクエアのタイムズ福岡城三の丸駐車場に車を止め、松ノ木坂から二の丸を
経て天守台へ向いました。曲輪の配置は、「本丸」の北から西にかけてL字型に「二の丸」
、二の丸の東に「東二の丸」、二の丸の南に「南二の丸(南丸)」、更にこれら全てを北か
ら西にかけてL字型に「三の丸」が在り、縄張りは梯郭式になります。曲輪を支持する石垣
が広範囲に残り、遺構の写真撮影にかなり時間を掛けましたが、それでも忘れているエリア
があったぐらいです。



 

表御門跡・本丸〔写真:左〕裏御門跡・本丸〔写真:右〕

 

武具櫓御門跡・本丸〔写真:左〕鉄砲櫓台・本丸〔写真:右〕

 

井戸跡・本丸

 

井戸跡・本丸〔写真:左〕小天守台西端の石垣・本丸〔写真:右〕



天守鉄門跡・本丸



天守埋門跡・本丸



大天守の建物基礎石・本丸



大天守台から見た中天守跡・小天守跡



大天守台・本丸



北隅櫓と井戸跡・南二の丸



多聞櫓・南二の丸



南隅櫓・南二の丸

 

桐木坂御門跡・二の丸〔写真:左〕水の手御門跡・二の丸〔写真:右〕


 

南丸虎口前の井戸跡・二の丸〔写真:左〕二の丸−東二の丸間の扇坂御門跡〔写真:右〕

 

祈念櫓・本丸〔写真:左〕東御門跡・東二の丸〔写真:右〕

 

名島門・三の丸〔写真:左〕旧母里太兵衛邸長屋門・三の丸〔写真:右〕



黒田如水公御鷹屋敷跡の石碑・三の丸



伝 潮見櫓と下の橋御門・三の丸



下の橋跡




下の橋跡から見た西側の水堀





上の橋門跡・東丸



上の橋跡東側の水堀





六号濠



大堀・大濠公園