美濃 福束城
Fukuzuka castle

福束城跡【岐阜県安八郡輪之内町福束】
 福満寺【岐阜県安八郡輪之内町福束928−1】
 浄光寺【岐阜県安八郡輪之内町福束56】

【立地】平城

【歴史】1414年土岐氏の命で福束蔵人十郎益行が築城したと伝えられる。1588年市
橋下総守長勝が秀吉から福束郷を安堵されているが、1589年市橋氏は今尾城へ移り、代
わって、丸毛三郎兵衛兼利が多芸郡大塚村の大墳城から入部した。慶長年間(1596〜1
615年)初期、丸毛〔丸茂〕兼利は周辺の湊の実権を握っていた。城が在ったとされる場
所は幾つもの支流が揖斐川に合流する舟運の要害で、兵糧の輸送に重要な軍略拠点であった
ことから、1600年「関ヶ原の戦い」の際には東西両軍から誘いを受けていた。結局、兼
利は西軍に与し、8月16日東軍福島正則から南濃平定を命ぜられた松ノ木城主徳永寿昌、
今尾城主市橋長勝が大榑川まで兵を進めた。兼利は大垣城の石田三成らが寄越した援軍とと
もに対峙した。東軍は一計を案じ、市橋隊の一部を渡河させ、背後の楡俣・十連坊に回り込
んで村人と共に放火。挟み撃ちにされたと錯覚した西軍は総崩れになり、翌日には福束城は
落城、兼利は大垣城へ敗走した。関ヶ原合戦後、兼利は加賀藩の前田利常に仕えた。190
0年木曽三川分流工事の際に城跡は消失、現在、河原となり、遺構は無い。

【所感】グーグルでは福満寺が福束城跡となっているが、これは関ヶ原の戦いの看板を指し
ている。城跡の場所は岐阜県中世城館跡総合調査報告書によると、浄光寺西方で堤防・河原
となっている。城跡から東方4キロ程の場所に「福束の戦い」で亡くなった東西両軍の兵士
を葬る墳墓・北塚がある。





福束城跡辺り・浄光寺西方・堤防河原



「福束の戦い」で戦死した兵士を葬る墳墓「北塚」【輪之内町指定文化財】



「丸毛兼利と関ヶ原の戦い」の看板・福満寺



福束山 福満寺