筑前 元寇防塁
Genkoh Bohrui

元寇防塁跡【福岡県福岡市西区今津・横浜2丁目・小戸5丁目・小戸1丁目・早良区西新等】

【立地】平地

【国指定史跡】元寇防塁

【歴史】1274年「文永の役」の後、鎌倉幕府が元の再来に備え、博多湾全沿岸に築いた
石塁で、1280年に完成した。1266年元の世祖〔クビライ〕が高麗の使者を介して日
本との通交を企てたことに始まる。1266年1回目に派遣された高麗の使者は巨済島まで
来て帰還。1268年2回目に派遣された高麗の使者はモンゴルの国書を持って大宰府に到
達するが、鎌倉幕府と朝廷は返書を拒絶。その後も4度使者が訪れるが、通交の返書を拒絶
し続けた為、1274年元が日本侵攻に動く。10月6日元軍は2万6000の兵、900
艘で対馬を落とし、10月20日博多湾に上陸して日本軍と交戦。元軍の圧力に日本軍は徐
々に後退し、大宰府を護る土塁線〔水城〕まで撤退したが、10月21日暴風雨で元軍の船
は博多湾から姿を消した。この戦いで博多湾警備の重要性を認識した幕府は、博多湾岸全域
に防塁〔石塁〕を築くことを推し進めた。防塁築造を急ぐ理由として、「文政の役」後も元
の使節派遣が継続され、元の再来が十分考えられたからである。1281年「弘安の役」と
なる。博多湾岸に迫った元軍は、防塁によって上陸の機を得ず、戦いは博多湾・玄界灘で展
開された。海戦から2ヵ月程経過した時、台風が元軍の船を襲い、大損害を受けて撤退。そ
の後、日本への上陸は無かったと云う。防塁は南北朝時代まで補修管理が行われたようだが
、いつしか海砂に埋没。1931年元寇防塁〔今津・今宿・生の松原・姪浜・西新・地行・
箱崎〕が国史跡に指定されている。

【所感】初めは佐賀遠征。福岡空港から車を走らせ、佐賀に最も近い「今津元寇防塁」を訪
ねることにしました。海岸線から100m程入り込んだ防風・防砂林の中に残石が並び、西
側にフェンスで囲まれた復元整備されたものも在ります。2回目は福岡遠征。目の前が海で
、往時の防塁が最もイメージしやすい「生の松原地区元寇防塁」。1968年から発掘・修
理・復元されたものです。




生の松原地区元寇防塁





今津元寇防塁