伊勢 五箇篠山城
Goka Sasayama castle

五箇篠山城跡・勢和図書館・ゆとりの丘【三重県多気郡多気町朝柄2889】

【立地】平山城
【別称】五ヶ城・篠山城・五箇笹山城

【町指定史跡】

【歴史】独立丘陵〔標高139m、比高70m〕上に築かれた平山城で、櫛田川×朝柄川合
流点の南に位置する。築城は鎌倉時代(1185〜1333年)中期〜南北朝時代(133
7〜1392年)とされ、築城者は上野国から伊勢国へ移住した野呂氏隆、あるいは孫の氏
晴とも云われ、明らかではない。野呂氏は南北朝以降は北畠国司に属し、野呂越前守源実が
城主の時、1569年織田信長の「伊勢侵攻」が始まる。南勢に至り、野呂氏は二見付近に
出撃して九鬼軍と交戦。大いに武名を挙げたが、国司家を快く思わない神宮関連の者が九鬼
軍に内応。敵に挟まれた野呂軍は苦戦に陥り、源実を初めとする一族の主だった人物は戦死
、篠山城も主を失った。野呂氏戦死後、安保式部少輔・安保大蔵大夫が入る。1576年北
畠具教が信長の命で旧臣に殺され、具教の弟具親が還俗して北畠再興を謀るも叶わず。15
82年「本能寺の変」で信長が討たれると、北畠具親は安保大蔵少輔や五箇・六呂木・佐那
・丹生・射和の兵を味方に再挙。年末、近辺に火を放ち、篠山城に籠城したが、翌1583
年織田信雄の家臣津川玄番・田中中務・日置大膳亮・本多左京亮らに攻められ、伊賀に敗走
したと伝わる。現在は山林となり、曲輪、土塁、堀切、竪堀、井戸跡らしきものが残る。

【所感】五箇篠山城跡は『ゆとりの丘』の一角に在って『勢和図書館』前にトイレと駐車場
・登城口が有ります。曲輪Tまで丸太階段が設置され、一般の方でも登り易く、見晴らしの
良い展望台のような場所〔曲輪T〕になっています。曲輪Tは三方を低い土塁が囲み、東端
は副郭も含めて高い土塁が横たわっています。4つの曲輪が並ぶ連郭式の縄張。曲輪Tの東
側に二重堀切、曲輪U〜曲輪Wは深い堀切、切岸に守られた独立した曲輪で見応え・撮り甲
斐のある遺構です。ただ曲輪W東側の堀切へ向かう道は無いので、南斜面を歩く必要があり
ます。更に登城口の看板にある『井戸もしくは雨水を貯めた跡』へ向かう道もありません。
先程の曲輪W東側の堀切から南面の竪堀を下りて急斜面を東へ移動して行くと、井戸らしき
窪みが見えて来ます。城郭南端の堀切へ行く道も無く、私たちはこの井戸跡から足場わずか
の山腹を渡り歩いて横へ移動してたどり着きました。撮影に苦労する場面もありますが、そ
れでも縄張図に書かれた遺構が確認出来る良い城跡と感じました。





五箇篠山城跡碑と看板・登城口





登城道







曲輪Tと土塁



曲輪Tの副郭

+

曲輪Tから見た北方の景色





曲輪T−曲輪U間の二重堀切



曲輪U







曲輪U−曲輪V間の堀切



曲輪V





曲輪V−曲輪W間の堀切





曲輪W





曲輪W東側の堀切



曲輪W東側の堀切から南側に下がる竪堀



井戸跡 or 集水穴





南尾根南端の堀切