志摩 五ヶ所城
Gokasho castle

五ヶ所城跡【三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦】
 愛洲の館【三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦2366】

【立地】丘城
【別称】愛洲城・笹山城

【県指定史跡】五ヶ所城跡 附 愛洲氏居館跡及墳墓

【歴史】馬山(標高198m)から西方に延びる丘陵端(標高37m、比高33m)に築か
れた平山城である。城主愛洲氏の系譜は定かではない。康永年間(1342~1345年)
以前に五ヶ所浦に土着し、一之瀬城〔度会町〕も居城であったとされる。1339年8月足
利勢で伊勢守護高師秋軍が、北畠顕能勢の潮田刑部左衛門尉幹景・加藤十郎左衛門定有らが
拠った神山城〔松阪市〕を攻め囲んだ時、鹿海一福太夫興時らと共に愛曾〔愛洲〕六郎左衛
門尉も反撃に出ている。1342年8月足利勢に伊勢守護仁木義長も加わり、北畠氏の田丸
城〔玉城町〕落城後、北畠氏は多芸に本拠を移すが、この時の防戦にも愛洲弾正忠宗家が加
わっている。1343年五ヶ所城も仁木義長に攻められたようである。竈方と呼ばれる中世
製塩村落であった小方・棚橋・栃木などを支配した愛洲氏は、宝徳年間(1449~145
2年)頃には本拠を一之瀬城から五ヶ所城に移したとされる。神宮禰宜の氏寺であった田宮
寺〔玉城町〕の寺領を押領しながら勢力を固め、1527年愛洲弾正親忠は家督を国忠に譲
り、田丸へ進駐した。1575年北畠氏の養子となった織田信雄が田丸城に入り、1576
年愛洲氏は織田信雄によって滅ぼされ、廃城になったとされる。現在は山林、竹林、果実園
などに変わり、曲輪、横堀、堀切、井戸跡が残る。

【所感】『愛洲の館』に駐車し、山側に見える階段を上ると二の郭です。二の郭西側の曲輪
や横堀の一部は、この階段の途中から確認することが出来ます。二の郭を横切って小道に出
ると、左が主郭方面、右が愛洲館跡・塔頭方面です。主郭は東から南に掛けて二重の横堀・
土塁が囲み、この城跡一番の見所です。主郭は石碑・看板、北端に土塁の一部が残っていま
す。この土塁は北西に延びる小尾根側に位置します。主郭沿いの横堀を歩いて北側へ回り込
むと、曲輪と小尾根を遮断する堀切があり、小尾根は物見台であった可能性があります。二
重横堀・土塁の東側一帯は竹林になっていますが、馬山から続く尾根を遮断する意味で何ら
かの防御構造が有ったと思われます。『左 城ノ後・右 足打』碑の場所から丸太段を下り
て、左へ進むと古井戸があります。主郭から二の郭→果実園を経て、南へ下ると、右手の広
い草地が愛洲館跡、中央にスロープ状の道があります。塔頭の場所はグーグルにも載ってい
ますが、南側の畑地横に入口があります。




主郭



主郭北端の土塁



『剣祖愛洲移香斎生誕之里』の碑と『愛洲公顕彰碑』・主郭




『五ヶ所城と愛洲氏』の看板と五箇所城阯碑・主郭



主郭入口





主郭北側の堀切+曲輪



堀切で断ち切られた小尾根・物見台か









主郭を囲む横堀・一条目









主郭を囲む横堀・二条目



『愛洲の館』からの登城階段



二の郭西側の曲輪



二の郭西側の横堀か



二の郭







古井戸







二の郭-愛洲館跡間の様子





二の郭→愛洲館跡への道







愛洲館跡





塔頭・愛洲氏墓所