遠江 八幡平の城
Hachimandaira castle

八幡平城跡【静岡県御前崎市新野】
  想慈院【静岡県御前崎市新野4299】

【立地】山城
【別称】新野古城・八幡平城

【歴史】室町時代初期、尾根続きの舟ヶ谷城の詰城として、土地の領主今川系新野氏が八幡
平〔一の曲輪:標高93m、比高50m〕に築いたことに始まる。新野の地名は、古く「倭
名類聚抄」に記載され、爾比乃(にひの)と読まれた。この地方の豪族横地・勝間田氏らと
共に「吾妻鏡」1190年11月、源頼朝の入洛に際し、新野太郎は行列陣随兵の三十四番
として浅羽三郎・横地太郎とともに三騎並んで進んだと記されている。その後、1213年
5月「和田合戦(和田義盛の乱)」の時、幕府方として和田方の朝比奈義秀に討ち取られた
新野左近将監景直を最後に「吾妻鏡」にその名を見ない。そして、1221年「承久の乱」
の模様を記した「承久記」に新野右馬允の名が見え、近江番場宿「蓮華寺過去帳」に後醍醐
天皇方の足利尊氏らの軍勢に攻められて京都から東国へ落ちる六波羅探題(北方)北条越後
守仲時に従う新野四郎朝繁が、1333年5月9日番場で仲時と共に討死したと記し、以後
、暫く諸史料からその名を消す。次に文献上、新野氏の台頭をみるのは「尊卑分脈」に載る
清和天皇の後裔と称する「今川系新野氏」である。源義家6代の子孫今川国氏の孫俊国が新
野弾少弼を名乗ったと云う。また「遠江国風土記伝」記されている永徳年間(1381〜1
384年)新野左馬助も今川系新野氏と思われ、今川氏の一族が古くからの土豪新野氏の名
を襲ったとする名跡相続説が有力であり、八幡平城は「今川系新野氏」関連の城とされる。
初めは単郭であったが、1575年「長篠・設楽原の戦い」の後、武田氏が滝堺城と高天神
城の繋ぎの城として、改修、利用したと云う。1581年高天神城は家康の兵糧攻めにより
落城した。現在は山林となり、曲輪、堀切、横堀、土塁が残る。

【所感】想慈院の墓地駐車場に縄張り図が有り、ここに駐車して城跡へ向かいました。〔私
は縄張り図をスマホで撮って見ながら歩きます〕登城口は墓地と駐車場から見える大手登り
口が有り、私は大手登り口から入りました。大手登り口に看板が在りますが、左のアスファ
ルト路ではなく、右の草地を行きます。丸太段を上ると、正面に竪堀が在りますが、効率良
く遺構を回る為に最初の左の道を入ります。横堀B〔堀跡は途切れ途切れ〕→馬出し→二重
堀切13・14→横堀A→横堀C→堀切5→堀切4を経て、城郭北端の二重堀切1・2に着
きます。堀切2の横から尾根上へ上がり、ここからUターンします。二の曲輪〔勝手にそう
呼んでいますが〕に入り、右奥へ行くと堀切3。元へ戻り、二重堀切6・7→一の曲輪北側
の堀切8を経て、一の曲輪に入ります。一の曲輪中央に「八幡平の城跡」の木碑と縄張り図
、ここに堀切の番号が書いてあります。一の曲輪の西側に堀切9・10・11・12が在り
ますが、堀切へ降りる傾斜がキツイなので、ストックがあった方が良いかと思います。とに
かく、堀切が沢山拝める城跡です。




八幡平城全景



大手登り口までの道



大手登り口



大手登城道



竪堀



横堀B入口の道





横堀B(途切れ途切れ)





堀切13と14・一の曲輪南側の二重堀切









一の曲輪東側の横堀A



二の曲輪東側の横堀C



堀切5・二の曲輪東側



堀切4・二の曲輪北東側



堀切1と堀切2・二の曲輪北側の二重堀切



二の曲輪



堀切3・二の曲輪西側



堀切6・二の曲輪南側の二重堀切



堀切7・二の曲輪南側の二重堀切



堀切8・一の曲輪北側の堀切



一の曲輪・八幡平




堀切9・一の曲輪西側



堀切10・一の曲輪西側



堀切11・一の曲輪西側



堀切12・一の曲輪南西側





想慈院登り口





想慈院登城道



想慈院登城道・堀切5に到着