蝦夷 戸切地陣屋
Hekirichi Jinya

戸切地陣屋【北海道北斗市野崎】

【立地】丘城
【別称】松前藩戸切地陣屋・松前陣屋・清川陣屋・穴平陣屋

【国指定史跡】松前藩戸切地陣屋跡

【歴史】1854年3月31日神奈川条約〔日米和親条約〕の締結により、1855年3月箱館〔函館
〕港の開港が決定した。幕府は蝦夷地、その属島全てを直轄領とし、勘定奉行吟味役竹内清太郎、目付
堀利熙を奉行として、1864年箱館奉行所が開設された。蝦夷地の領主松前家は、蝦夷中道南の知内
村村〔知内町〕建有川から西の五厘沢〔江差町〕までが領地となったが、他に陸奥国伊達郡染川・出羽
国村山郡東根を合わせて3万石を支給され、別に出羽国尾花沢1万350石を預かり地とし、更に年々
1万8千両を得るところとなり、家格を1万石→3万石と改めた。1855年4月幕府は松前など5藩
〔津軽・秋田・南部・仙台・松前〕に命じて蝦夷地の沿岸警備に当たらせ、各分担区域を定め、松前藩
主松前崇広は押付、矢不来台場など箱館〜七重浜〜木古内かけての警備を受け持つことになった。松前
藩士藤原主馬の設計による日本国内初の洋式城塞が築かれることになり、6月戸切地名主権田徳左衛門
が人夫の世話から資材調達の一切を取り仕切り、責任者は家臣北見政庸、松前城築城の副工頭橋詰彦右
衛門が建築を担当、戸切地・大野・七飯など近在の農民の手で工事が行われ、着工から5ヶ月、185
5年10月に完成した。オランダ式の築城法によって築かれた四稜郭で、東側の稜堡が菱形に突き出た
形をしており、ここに6個の砲座と砲眼(堡塁が下がっている部分)が在る。その後、家族も移住させ
、平時は農業、有事は軍隊に従事する屯田制度をとっていた。備頭竹田作郎以下約120名が守備に就
いていたが、主な任務は陣屋勤番・海洋巡視・矢不来台場の警備、大・小砲の実習など西洋式調練を行
い、時に熊狩りも試み、武勇を練り、農耕も行った。1868年9月19日夜半、榎本武揚率いる旧幕
府艦隊は品川沖を脱し、途中仙台に東北戦争で敗れた大鳥圭介・土方歳三ら旧幕府脱走軍を収容して総
勢約3000人となり、10月20日蝦夷地の鷲ノ木に上陸した。10月24日榎本軍が大野村に迫っ
た時、福山・大野・松前3藩が出兵したが、抗し切れず苦称別村〔久根別〕まで撤退した。これより前
、弘前の藩兵が当地に来ていたが、戦況をみて松前藩兵と協議して退去することとした。陣屋や周囲の
民家を焼き払い、一戦も交えることなく敗走、陣屋は廃された。1965年国史跡に指定され、現在は
堀、土塁がよく残る。

【所感】五稜郭タワーのように全体を視ることは出来ませんが、四稜郭よりも広く、五稜郭と同じよう
に門を入ると正面に一文字土塁〔馬隠し〕が在ります。戸切地陣屋は国内初の稜堡式城塞であり、その
後、函館五稜郭・龍岡五稜郭・四稜郭の順に築かれ、何れも国指定史跡となっています。歴史的には浅
いですが、珍しい城塞なので、函館に来たら、是非訪ねて下さい。





表御門と土塁



馬隠し(一文字土塁)の前に立つ松前藩戸切地陣屋跡の石碑




陣屋内部

 

井戸跡〔写真:左〕大砲入跡〔写真:右〕

 

神社〔写真:左〕足軽長屋跡〔写真:右〕

 

裏御門〔写真:左〕裏御門脇の外堀〔写真:右〕




東側の凌堡から見た土塁と外堀