豊後 日出城
Hiji castle

 日出城跡【大分県速見郡日出町】
日出小学校【大分県速見郡日出町2610-1】
日出中学校【大分県速見郡日出町2627】
 二の丸館【大分県速見郡日出町2612-1】

【立地】平山城
【別称】暘谷城・青柳城

【歴史】1601年木下延俊が築いた平山城である。延俊の父は木下家定、家定の姉が豊臣秀吉の正室
北政所、延俊は豊臣秀吉の甥に当たる。1600年「関ヶ原の戦い」の際、木下延利は細川忠興の強い
説得を受け、東軍に属して姫路城で西国大名に備えたとされる。その後間もなく、忠興と共に出陣して
石田方残党の小野木縫殿助が籠城する丹波福地山城を攻め落としたが、論功対象から外され、忠興の幕
府への具申により、1601年木下延俊は豊後国日出3万石へ移り、藤原村に仮住居を設けて新城築城
に着手した。城の場所は深江と日出の2案があり、細川忠興の意見で日出の青柳村に決まり、延俊の妻
が中津藩主細川忠興の妹であったことから、援助を得ながら、縄張りも細川の家臣穴生理右衛門が行っ
た。1602年ほぼ完成したと伝わる。1632年領内で金が発見され、鶴成金山はその後も長く藩直
営金山として管理され、藩財政の主要な財源となった。1642年延俊が没し、嫡男俊治が襲封。この
時、父延俊の遺言は弟延由に速見郡立石1万石を分与する内容であったが、家老長沢市之亟が一命を賭
して5000石に収め、以後、2万5000石となる。1660年俊治は薩摩国から藺草を導入して七
島藺を作り、後に国産の基礎になった。1661年俊長-1707年年量-1729年俊在-1731
年俊保と続き、享保の大飢饉で藩財政が窮乏し、幕府から3000両を借用、1735年藩札を発行し
て打開を図った。1738年俊監-1741年俊能-1748年俊泰-1768年俊胤-1776年俊
懋-1810年俊良-1815年俊敦-1847年俊方-1854年俊程-1867年俊愿と続き、1
671年廃藩置県を迎える。現在は学校、住宅に変わり、堀、石垣、鬼門櫓が移築されている。

【所感】現在、本丸は日出小学校になっており、学校を囲むように堀や石垣を見ることが出来ます。海
側の石垣は天守台や望海櫓台の形がそのまま残り、小学校のグランドから天守台に上がることが出来ま
す〔先生の許可を得ました〕。天守台からの眺めは良く、遠くに高崎山〔野生ニホンザルの生息地〕・
別府湾、眼下には有名な城下かれい〔マコガレイ〕が獲れる城下海岸が在ります。小学校の東門横に有
る時鐘〔鐘撞堂〕は3代藩主木下俊長の代に造られたもので、鐘櫓台上に設置されています。堀は北側
が分かりやすい形で残っており、東側・西側も堀の雰囲気が感じられる道路になっています。往時、鬼
門櫓は本丸の北東隅に在ったものですが、所有者より寄付によって戻され、現在は本丸外に置かれてい
ます。傷みが激しい部分は補修され、現在は町の有形文化財に指定されています。








天守台



天守台からの景色




天守台東側の堀跡



鐘櫓跡東側の堀跡



望海櫓台



望海櫓跡



有名な城下かれいが獲れる城下海岸・城下公園・本丸南側



海岸沿いの石垣・本丸西側



本丸 月見櫓台西側の堀跡



移築 鬼門櫓・本丸東北隅櫓【町有形文化財】

 

鬼門櫓1階〔写真:左〕鬼門櫓2階〔写真:右〕

 

暘谷城趾の石碑・日出小学校〔写真:左〕滝廉太郎像〔写真:右〕

 

鬼門櫓北側の堀跡・日出小学校の北側〔写真:左〕井戸跡・二の丸館の前〔写真:右〕



裏門櫓・二の丸

 

藩校 致道館【県指定史跡】〔写真:左〕旧木下家居所・金光教日出教会〔写真:右〕