出羽 本荘城
Honjo castle

本荘城跡・本荘公園【秋田県由利本荘市尾崎】
  由利本荘市役所【秋田県由利本荘市尾崎17】

【立地】丘城
【別称】鶴舞城・尾崎城

【歴史】1600年「関ヶ原の戦い」の戦功により、最上義光は庄内3郡に加え、新たに由
利郡を与えられた。最上氏は由利郡北部〔亀田・本荘地区など3万9000石余〕に重臣の
楯岡豊前守満茂を置き、常陸から秋田に減転封された佐竹氏の備えとした。楯岡満茂は最上
氏の一族で、村山郡の枢要楯岡城を守る武将だった。小野寺氏との合戦では、湯沢城を落と
して城代となり、1601年津和野には配流された小野寺氏の旧領を管理するため、横手城
を請取った。由利郡に入ったに入った満茂は、天鷺城に居所を構え、1613年本荘城完成
後、本城氏を名乗ったと云う。1622年最上氏が家中内訌で改易されると、本城満茂と弟
満広も前橋の酒井家に預けられ、宇都宮15万石本多正純が5万5000石で減転封された
。幕府の破却命令により、本城城は徹底的に取り壊された。本多正純は先の秀忠暗殺などの
疑いを不服とし、由利領返上を願い出て改易。1623年佐竹義宣預かりの身となった。同
年10月六郷兵庫頭政乗が1万石の加増を受け、常陸国府中から2万石余で本荘〔本城〕に
入って立藩した。政乗の後、その子政勝は甥政慶に新田400石を分地、政信を経て、政晴
は元禄年間(1688〜1703年)の治政の時、5700余石の新田を開墾して藩体制を
確立した。この後、徐々に藩政が停滞し、出羽国酒田の豪商本間家からの借り入れが多額と
なり、藩財政が逼迫した。その後、政長−政林−政奏−政淳−政恒−政殷と続き、1868
年「戊辰戦争」の際、11代政鑑は久保田藩と共に新政府側に付いたことから、庄内藩の攻
撃を受け、政鑑は城に火を放って久保田藩へ逃れた。1869年軍功により、賞典禄1万石
を得て領地を回復し、1871年廃藩置県を迎えた。現在は本荘公園・神社となり、曲輪・
土塁・水堀などが残る。


【所感】市役所背後の丘上〔標高25m〕に本丸、本丸東側の一段下がった遊具の場所が二
の丸、市役所とその西側の広場が三の丸になります。遺構としては三の丸の北に水堀、本丸
の南西に三日月堀、本丸を囲む土塁が残っています。本荘公園に入ると、縄張り図が書かれ
た看板や櫓・倉・門跡などの標柱も立っていますので、探しながら散策して下さい。




蓬莱橋と三の丸城門



蓬莱橋から見た東側の水堀



蓬莱橋から見た西側の水堀



三の丸



東御門跡・二の丸



招魂社・本丸



本荘神社・本丸



弓櫓跡



長柄櫓跡



鉄砲櫓跡



御門跡



煙硝倉跡



干飯倉跡



具足櫓趾の標柱