尾張 堀尾屋敷
Horio residence

堀尾屋敷跡【愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1丁目】
堀尾跡公園【愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1丁目50】
  桂林寺【愛知県丹羽郡大口町堀尾跡2丁目16】
  八剱社【愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1丁目60】


【立地】平地
【別称】堀尾吉晴邸・御供所城

【歴史】天武天皇の皇子高市親王を祖とする高階修理大夫邦経が、この地を領したことに始まる。忠泰
より堀尾氏を称し、泰邦−忠邦−泰吉−泰政−泰晴〔1517〜1599年〕を経て、吉晴へと続く。
泰晴−吉晴〔1544〜1611年〕父子は岩倉城主織田信安に仕え、山内盛豊〔一豊の父〕と共に重
職にあったが、1559年織田信長に攻め落とされ、堀尾吉晴は浪人となる。その後、信長に仕え、1
567年「稲葉山城攻め」の際、信長軍の道案内を務めたと云う。信長没後、茂助〔堀尾吉晴〕、孫平
次〔中村一氏〕、伊右衛門〔山内一豊〕ともに秀吉に仕えて発展した。1573年近江国長浜100石
、その後、播磨国姫路1500石、丹波国黒江3500石、1582年「山崎の戦い」の武功により、
丹波国氷上郡内6284石、1583年若狭国高浜1万7000石→2万石、1585年近江国佐和山
4万石と出世を続け、1590年「小田原城攻め」の後、遠江国浜松12万石の城主となった。160
0年「関ヶ原の戦い」では東軍に与し、戦功により、出雲国富田24万石に加増移封された。1611
年松江城を築いて本拠としたが、同年6月に享年63歳で亡くなる。現在は若宮八幡社の一角に堀尾吉
晴邸趾の石碑と看板が立つ。


【所感】県道157号線と県道176号線、五条川が交差する地に在り、若宮八幡社の北に堀尾跡公園
、東に桂林寺、西隣りに八剱社が在ります。若宮八幡社の南東一角に堀尾吉晴邸趾の石碑、堀尾吉晴邸
趾碑陰記の看板、金助と母の像が在ります。



 

堀尾吉晴邸趾の石碑・若宮八幡社〔写真:左〕金助と母の像・若宮八幡社〔写真:右〕