美濃 揖斐城
Ibi castle

揖斐城跡【岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪】
三輪神社【岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪1322】
 一心寺【岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪2924−2−2】

【立地】山城

【町指定史跡】

【歴史】1343年、城台山〔標高220m、比高150m〕山頂一帯に揖斐出羽守頼雄が
築いたとされる。美濃の名族土岐頼清の子、大膳頼康の弟で、揖斐氏を称して美濃揖斐氏の
始祖となった。1380年頼雄没後、揖斐蔵人讃岐守詮頼−左近大夫友雄−左近大夫基春−
周防守基信と続き、基信に子が無かった為、宗家の土岐美濃守政房の子五郎光親を養子に迎
えた。斎藤道三は土岐頼芸の大桑城、頼芸に味方した相羽城の長屋景興、揖斐城の揖斐五郎
光親を攻撃。1547年揖斐城は戦火によって焼失、廃城となった。光親は城を脱出して流
浪したが、織田信秀と斎藤道三の和睦で美濃が落ち着くと、古橋に城を築いて住んだ。揖斐
城は堀池氏の所領となったが、1583年稲葉一鉄に攻められて再落城した。現在は山林、
散策道となり、曲輪、堀切、竪堀、横堀、土橋、井戸跡が残る。


【所感】揖斐城跡〔標高220m〕の登城口は山麓の三輪神社〔標高42m〕と中腹の一心
寺〔標高110m〕があり、私はハイカーではないので、一心寺からスタートとしました。
一心寺から車道を250m戻った「城台山公園播隆の森」駐車場に車を止め、一心寺本堂左
手から登りました。途中、東屋・白山神社の分岐点を経て、「城跡・井戸」の看板が立つ場
所から城跡のエリアに入ります。本丸手前の「南の丸」や「腰曲輪」は、1830年一心寺
が在った場所で、1893年現在地に移されました。丸太段を上って「本丸」へ。「本丸」
を囲む土塁は無く、東端の「枡形虎口」→「土橋・堀切」を経て、縄張り図が立つ「曲輪」
へ。この「曲輪」は「二の丸」と同レベルの高さ、一段下りた3連「曲輪」は「三の丸」と
同等の高さです。「出丸(太鼓曲輪)」は「三の丸」より7、8m高く、「本丸」よりも眺
望の良い場所になっています。「切通し」を経て、「北の丸」→「土橋」→「搦手」となり
ますが、「北の丸」「搦手」は自然地形のように見えます。「二の丸」北側に「帯曲輪」、
その更に下に「横堀」や「竪堀」が有り、大手道を楽に登らせない工夫がされています。二
の丸の南下に井戸跡。今でも水が有る状態です。曲輪が連続して並ぶ連郭式の縄張りになり
ますが、散策道のおかげで歩き易く、撮り易い城跡でした。




















登城道



南の丸南側の曲輪



南の丸



南の丸→本丸へ











本丸







本丸×曲輪間の土橋と堀切





本丸×二の丸間の曲輪







二の丸



二の丸北側の帯曲輪



二の丸北側大手道脇の堀切



二の丸北側下の横堀





二の丸×三の丸間の曲輪





二の丸×三の丸間の曲輪



三の丸から見た出丸







出丸(太鼓曲輪)



出丸北側の切通し



北の丸



北の丸×搦手間の土橋



搦手



井戸跡