尾張 生駒屋敷
Ikoma residence

  生駒屋敷跡【愛知県江南市小折町八反畑】
 布袋東保育園【愛知県江南市小折町八反畑147】
    久昌寺【愛知県江南市田代町郷中51】
   広間医院【愛知県江南市布袋町中200】
吉乃の方荼毘地【愛知県江南市田代町西ノ丸】
    富士塚【愛知県江南市南山町東】
  宝頂山墓地【愛知県江南市小折町八反畑】

【立地】平城
【別称】小折城

【歴史】応仁、文明年間(1467〜1486年)頃、生駒左京進家広の築城とされる。生駒氏は藤原
良房の子孫で、大和国生駒郷に住して生駒氏を称し、その後、尾張国小折へ移住したと云う。2代豊政
の時、土田氏の親重〔〜1570年8月15日〕を養子とする。3代家宗の娘〔家長の妹〕「吉乃の方
」は信長の側室となって長男信忠、次男信雄、徳姫〔徳川信康妻〕を産み、生駒氏は織田氏から好遇さ
れた。1560年「桶狭間の戦い」、1563〜1567年「西美濃攻め」では生駒屋敷で戦略が練ら
れたと云う。1582年信長没後、織田信雄が4代生駒八右衛門家長〔吉乃の方の兄〕を重用したが、
信雄追放後は隠居となる。家長の子5代利豊は尾張を領有した豊臣秀次、松平忠吉、徳川義直に仕え、
尾張藩士となる。6代利勝以降、宗勝−致長−致稠…と、4000石の尾張藩士として明治まで存続し
た。親重の子親正は17万3000石の初代高松藩主となり、2代一正、3代正俊を経て、1640年
4代高俊の時、生駒騒動で領地を収公され、出羽国由利郡矢島藩主1万石へ移る。高清〔以降、800
0石交代寄合旗本〕−親興−正親−親猶−親賢−親信−親睦−親章−親孝−親愛−親愛−親道−親敬〔
立藩1万5000石〕と明治まで続いた。現在は布袋東保育園などに変わり、歴史看板、石碑が立つ。


【所感】県道157号線沿いの布袋東保育園南西角に歴史看板と石碑が在ります。尾張、美濃の国境と
なる木曽川の南に在り、「稲葉山城攻略」の際は、墨俣、黒田、小口、鵜沼、猿喰、加治田城に加え、
ここ小折城も稲葉山城〔岐阜城〕を囲む織田方の城となりました。





「生駒氏の城址」の石碑・生駒屋敷(小折城)の看板・布袋東保育園


 

生駒氏の菩提寺・久昌寺〔写真:左〕生駒家5代と織田信長室「吉乃」の墓・久昌寺〔写真:右〕



生駒家15代の墓所・久昌寺

 

移築 生駒屋敷の中門・広間医院〔写真:左〕吉乃の方荼毘地・経塚・吉乃桜〔写真:右〕

 

生駒家6代利勝建立の富士塚〔写真:左〕生駒家4代家長夫妻の墓・宝頂山墓地〔写真:右〕

 

生駒家4代利長夫妻の墓・宝頂山墓地〔写真:左〕生駒家10代周房の墓・宝頂山墓地〔写真:右〕