美濃 今尾城
Imao castle

   今尾城跡・今尾小学校【岐阜県羽島市平田町今尾4434】
今尾城跡・今尾認定こども園【岐阜県羽島市平田町今尾4428】
          西願寺【岐阜県羽島市平田町今尾2982】

【立地】平城
【別称】今尾陣屋

【歴史】文明年間(1469〜1487)、美濃守護代斎藤氏の従士中島三郎大夫重長の築
城とされ、藤三郎重直−出羽守重元−内蔵助重行と70余年続いた。重行の時、織田信長の
攻撃で滅び、1567年駒野城から高木彦右衛門貞久が入る。跡を継いだ貞久の次男貞利が
生害した為、森寺清右衛門高良−戸倉四郎兵衛正直を経て、1587年豊臣秀吉の家臣市橋
下総守長勝が青柳城から美濃国安八郡内1万1300石で入る。長勝は、1600年「関ヶ
原の戦い」で徳川方に属し、松ノ木城主徳永寿昌と組んで丸毛兼利の福束城を落城、戦功に
より1万石加増、1608年伯耆国矢橋城2万石へ転封となる。1619年尾張藩領となり
、尾張藩付家老竹腰山城守正信が3万石で在所として与えられる。正晴−友正−正映−正武
−勝起〔勝紀〕−睦群−正定−正富−正旧〔正舊〕と続き、1868年正旧が今尾藩を立藩
、1869年版籍奉還となる。現在、小学校に土塁の一部が残り、西願寺に城門が残る。

【所感】木曽三川エリア・輪中地帯の遺構、土塁の一部でも貴重です。江戸中期の絵図を見
て私見で大別すると、今尾小学校が「書院屋敷」、今尾認定こども園が「御城屋敷」、駐車
場が「役屋敷」といった位置関係になっています。南側一帯が城下町で、鍵の手・喰い違い
・丁字路の道がそのまま残っており、敵兵の侵入を阻む構造が確認出来ます。





土塁の一部と「今尾城と竹腰氏」の看板・今尾小学校




今尾城の主要部「御城屋敷」跡辺り・今尾認定こども園と今尾小学校体育館



今尾城移築城門・西願寺