三河 岩広城
Iwahiro castle

岩広城跡【愛知県新城市富沢字破城】
アイデン【愛知県新城市富沢字道ノ前96−1】

【立地】丘城
【別称】広瀬城・岩広村広瀬城

【市指定史跡】

【歴史】標高45m、比高20mの豊川に突き出た段丘端に位置する。1312年設楽重清が設楽郷か
ら岩広郷へ移住、1313年岩広城を本城として築き、川路城、来迎松城を支城とした。1560年「
桶狭間の戦い」の後、設楽氏は今川氏を離れ、家康に従った。1572年「三方ヶ原の戦い」の際、重
清から18代目の貞道は、子の貞信を浜松城に預け、菅沼定盈と共に野田城に籠った。1575年「長
篠の戦い」では、酒井忠次に属して鳶ヶ巣砦の急襲に加わるなど忠勤を尽くし、奥平信昌に与えられた
設楽領地の代地として、駿河、遠江国を給せられた。1590年家康関東移封に伴い、武蔵国埼玉郡へ
移ったが、1600年「関ヶ原の戦い」の後は、設楽へ帰郷し、貞信は門前・夏目・谷下・浅木・出沢
・竹広6ヶ村700石を得て、幕末まで存続した。城主に設楽越中守守通の名もある。現在は山林、田
畑に変わり、曲輪、土塁、堀が残る。


【所感】国道151号線茶臼山駅入口信号から東へ100m程進んだ右手1本目を入ります。道なりに
進み、アイデンを過ぎた右の田地へ降りる砂利道をひたすら南下すると、終点が城跡になります。城跡
碑が在る場所まで車で行けますが、その先は釣り人が利用する豊川へ降りる小道になっています。東、
南側に豊川、西側に支流半場川〔沖野川〕が流れる要害の地に在ります。




岩広城趾の碑

 

岩広城趾〔写真:左〕堀跡〔写真:右〕