周防 岩国城
Iwakuni castle

  岩国城【山口県岩国市横山3丁目】
吉川史料館【山口県岩国市横山2丁目7−3】

【立地】山城
【別称】横山城
【天守の構成・形式】複合式望楼型天守

【歴史】1601年施工の吉川広家築城の城とされる。中世安芸国の地頭であった吉川氏は
、戦国期に毛利元就の次男元春が吉川興経の養子となり、中国地方に勇名を馳せたが、15
86年元春病没、1587年嫡子元長も病没となった為、同年三男広家が家督を継ぎ、15
91年出雲国3郡・伯耆国3郡・安芸国1郡内11万石+隠岐国を与えられ、出雲国富田月
山城の城主となった。1600年「関ヶ原の戦い」の際、広家は西軍に与しながら家康に内
応していたが、西軍総大将の宗家毛利輝元は所領8ヶ国を没収されて防長2ヶ国に封じられ
、結果、広家も減封となり、周防国玖珂・大島2郡内3万石となった。1601年広家は居
所を岩国に定め、錦川右岸の段丘上に居館、背後の横山〔標高216m〕山頂に築城を始め
た。城郭奉行は松岡安右衛門、祖式九右衛門、二宮兵介、吉田宗右衛門が務め、天守は4階
、6階が広く張り出した「南蛮造り」で築かれた。関ヶ原後の新規築城は平地や低丘陵上が
大半であったが、岩国城は山城であり、徳川政権が安定しない時期に更なる戦を想定したも
のと考えられる。工事は居館となる御土居〔おどい〕から開始され、二の丸、松の丸、次い
で土居主要部に着手した。しかし、広家は天下普請で伏見城、江戸城を割り当てられ、本格
的な工事に入ったのは、1605年頃となる。1608年山頂城郭が完成し、山麓居館完成
から5年の歳月費やしたが、1615年一国一城令で岩国吉川氏は萩毛利家一門とみなされ
、岩国城は僅か7年で破却となった。1625年広家没後、広正が継ぎ、1640年には紙
の藩専売制を実施。1673年広嘉は御土居と城下町を結ぶ「錦帯橋」を築いた。その後、
広範−広逵−経永−経倫−経忠−経賢−経礼−経章−経幹と続き、経健を最後に明治を迎え
る。1962年南へ50mの場所に天守が復興され、石垣、井戸跡、堀などが残る。


【所感】前回は広島旅行の最終日に錦帯橋・岩国城天守・旧天守台・大釣井を撮って終わり
ましたが、今回は天守内に展示されていた縄張図を基に遺構を再撮影しました。また、天候
も雲一つ無い快晴をいうことで、佐々木小次郎像・吉川広家騎馬像・錦帯橋+岩国城など、
青空を背景に撮影出来たことに大変満足しています。





錦帯橋と岩国城天守













四重六階 復興天守・本丸

 

 

天守内部・本丸



天守最上階の景色・本丸







本丸内枡形虎口





復元 旧天守台・本丸





二の丸下の石垣









二の丸外枡形虎口・出丸





二の丸・花木園



北の丸→二の丸間の横堀





北の丸



尾崎曲輪→北の丸枡形虎口へ



尾崎曲輪



大釣井




佐々木小次郎と天守



吉川広家公騎馬像と天守




旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡



旧畳矢倉跡に築かれた錦雲閣