美濃 鏡島城
Kagashima castle

稲荷神社と鏡島城跡の看板【岐阜県岐阜市鏡島中2丁目18】
       鏡島城址碑【岐阜県岐阜市鏡島中2丁目20】
         乙津寺【岐阜県岐阜市鏡島中2丁目8−1】


【立地】平城

【歴史】築城年は定かではない〔16世紀初期か〕。『新撰美濃志』では石川駿河守光清を
最初の城主としている。光清は多田〔源〕満仲の子源頼親の末孫であり、光清の子で法名を
江雲という者が住んだと云う。以後、織田信長に仕えた江雲の子杢兵衛光信、豊臣秀吉に仕
えた杢兵衛光政まで4代が城主として鏡島城に拠った。光政の子伊豆守貞政の子孫や貞政の
弟土佐守勝正の子孫は共に旗本として徳川幕府に仕えた。また、光政の弟光重の子光元は秀
吉に仕え、播磨国龍野の城主になり、1600年「関ヶ原の戦い」で失領したが、光元の子
光忠が徳川家康に召し出されて1万石を領し、藩主徳川義直付きを命じられ、尾張徳川家の
重臣石河家・鏡島家の祖となった。『美濃明細記』では、鏡島城の創築は斎藤帯刀左衛門と
し、その後は土岐氏代々の臣安藤氏の居城となり、安藤民部守利の長子伊賀守守龍が住んだ
と云う。守龍は河渡城主でもあり、織田信長に属したが、1573年武田信玄に内通した疑
いで河渡城を退き、後に本巣郡北方に要害の地を構えた。現在は住宅となり、城址碑、看板
のみである。


【所感】稲荷神社にある『稲荷神社と鏡島城跡』の看板を読むと、稲荷神社は天文年間(1
532〜1555年)石河駿河守光清によって祀られ、『加納領明細絵図』には神社の南側
に城跡が描かれているそうです。現在、神社の南側は住宅密集地で、その中に鏡島城址碑と
看板があります。鏡島は長良川左岸にあって、岐阜市内で唯一現存する『小紅の渡し』があ
ります。江戸時代前期、加納藩戸田氏の時代には本家〔加納城〕と分家〔文殊陣屋・北方陣
屋〕を結ぶ街道の渡船場だったようです。





『稲荷神社と鏡島城跡』の看板



鏡島城址碑と看板



『小紅の渡し』の看板・乙津寺墓地