尾張 梶川高盛宅
Kajikawa Takamori residennce

梶川高盛宅跡【愛知県一宮市奥町貴船】
  貴船神社【愛知県一宮市奥町貴船8】
   圓通寺【愛知県一宮市奥町貴船47】
奥町西保育園【愛知県一宮市奥町下口西10】

【立地】平地
【別称】梶川高盛邸・梶川屋敷

【歴史】時期は定かではない。奥城主梶川弥三郎高盛の屋敷とされる。父梶川高秀は、15
60年「桶狭間の戦い」で中島砦に布陣している。信長に属し、1573年足利義昭の槇島
城を攻撃。その後、織田信雄の家臣織田秀信の重臣となる。1584年「小牧、長久手の戦
い」の際、梶川高盛の居城奥城が徳川家康+織田信雄連合軍の陣所となるが、合戦後半、秀
吉軍に囲まれ、落城となる。現在は貴船神社に梶川高盛公宅地の石碑が立つ。奥村助右衛門
永福は奥村助右衛門宗親の次男として当地に生まれた。後に荒子へ移り、前田利家の父前田
利昌・兄利久に仕え、荒子城代を務めて後、浪人となった。姉は戸田城主戸田新左衛門へ嫁
ぎ、兄は庄右衛門利久は織田信孝に仕えていた為、次男永福が家督を継いだ。1573年信
長の越前侵攻で帰参し、柴田勝家の与力前田利家の家臣として朝倉攻めなどで活躍した。利
家が加賀国に入った際、末森城主となる。1584年「小牧、長久手の戦い」の頃、主君前
田利家が秀吉に属した際、徳川家康+織田信雄連合軍を支持する佐々成政1万5000の兵
に攻められ、二の丸まで落ちたが、利家援軍到着まで死守した。その後も利家の重臣として
、1587年「九州征伐」・1590年「小田原征伐」に参戦し、1599年利家没後、永
福も隠居した。1614〜1615年「大坂の陣」では金沢城代を務めた。現在は貴船神社
内に梶川高盛公宅之地碑、奥村伊予守永福出生之地の石碑が立つ。


【所感】県道146号線、県道148号線が交差する名鉄尾西線奥駅西の奥町駅前信号を北
上し、次の信号交差点を左折し、50m程進むと、右手の圓通寺奥に貴船神社が在ります。
奥城跡〔奥町西保育園〕の東500mに位置します。梶川高盛公宅之碑は本殿左奥、奥村伊
予守永福出生之地の石碑は拝殿手前右手に在ります。





梶川高盛公宅之地碑・貴船神社



奥村伊予守永福出生之地の石碑・貴船神社



貴船神社