河内 上赤坂城
Kami Akasaka castle

        下赤坂城跡【大阪府南河内群千早赤阪村桐山】
千早赤阪村学校給食センター【大阪府南河内群千早赤阪村桐山25】

【立地】山城
【別称】小根田城・桐山城・楠木本城・楠木城・赤坂城・赤阪城

【国指定史跡】楠木城跡

【歴史】上赤坂城は、元弘年間(1331〜1334年)に築かれた標高345m、比高1
50mの山城である。当城は楠木正成が再挙に際して千早城と共に整備したもので、平野将
監を大将に楠木正季を副将として守らせた。1333年2月鎌倉勢が京都を発し、三手に分
かれて上赤坂城へ押し寄せた。上赤坂の城兵は平野将監ほか300余人、阿蘇治時を大将と
する鎌倉勢は大軍で襲い掛かった。本間又一郎一族が先陣を切って一の城戸→二の城戸→三
の城戸を打ち破り、四の丸の木戸口に近付いた時、城から一斉に矢が放たれ、死傷者続出。
鎌倉勢は包囲作戦に切り替え、水路を断ち、正面攻撃に加えて別動隊が背後へ回り、本宮砦
→篠原六郎が守る猫路山城を落とし、搦手から攻め掛り、攻防戦10日で落城となった。同
年、下赤坂城も落城するが、5月22日新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡する。1934年
国指定史跡となり、現在は山林、草地となり、曲輪、横堀、堀切、竪堀が残る。


【所感】下赤坂城跡の南1.7キロ、千早城跡の北4.2キロに位置します。千早赤阪村学校給
食センター前の細道〔上赤阪城跡の看板有り〕を200m程上った右手に駐車場、正面の小
道が登城口です。『国史跡楠木城跡』の看板が『一の木戸』、『二の木戸』『三の木戸』は
看板が立ち、『そろばん橋』を渡った辺りが『四の木戸』のようです。縄張り図を見ると、
『そろばん橋』呼ばれる土橋の両脇に竪堀が切ってありますが、左側の3本は容易に確認出
来ますが、右側はつる性雑草〔葛?〕に覆われて確認出来ません。そろばん橋を過ぎ、道の
左手に斜面が出て来たら、そこが東曲輪群です。最初の腰曲輪は入って撮影出来ますが、そ
れ以南の曲輪は草木が生い茂り、未整備状態で入ることが出来ません。西と東の曲輪群を繋
ぐ『茶碗原』もつる性雑草に広く覆われて地形が掴めません。『上赤坂城本丸→』の看板に
従って上り切った場所が西曲輪群の本丸で、丁字路のように道が二手に分かれ、右は楠木城
跡碑が立つ展望の良い高台、左が南端の腰曲輪へ向かう道です。南端の腰曲輪から本丸西側
の腰曲輪に下りることが出来、下りて直ぐに左下を覗くと、横堀+土塁が確認出来ます。城
跡碑が立つ場所も展望が良くて◎ですが、遺構では横堀+土塁が最もお勧めです。




登城口



一の木戸



登城道



二の木戸



登城道



三の木戸





そろばん橋(土橋)と竪堀



登城道



東曲輪群最北の曲輪



東曲輪群横の登城道



東曲輪群と西曲輪群間の茶碗原





登城道





主郭北端の城阯碑・西曲輪群



主郭南端の曲輪・西曲輪群





主郭西側の腰曲輪・西曲輪群





主郭南西の横堀と土塁・西曲輪群