対馬 金石城
Kaneishi castle

        金石城跡【長崎県対馬市厳原町今屋敷】
旧金石城庭園・厳原体育館【長崎県対馬市厳原町今屋敷670−1】
    旧歴史民俗資料館【長崎県対馬市厳原町今屋敷668】

【立地】平城
【別称】府中城・金石館

【国指定史跡】金石城跡
【国指定史跡】対馬藩主宗家墓所
【国名勝】旧金石城庭園

【歴史】1528年宗将盛の築城とされる。同年10月宗家一族で内紛が起き、宗盛治が島
主で宗家14代将盛の池館〔池の屋形〕を襲い、兵火によって焼失した。乱後、国分寺跡地
に金石館〔金石屋形〕を築き、宗家19代義智の頃、櫓門・多聞櫓などを設けて金石城と称
したと云う。1586〜1587年豊臣秀吉の「九州平定」後、宗義調・義智父子は対馬一
国を安堵され、翌1588年12月に義調が没し、嫡男義智が家督を継ぐ。1592〜15
93年・1597〜1598年「文禄・慶長の役」が起こると、日本と朝鮮の国交は断絶、
これまで宗氏が培って来た日朝貿易も水泡に帰し、最大の収入源を失った。1598年秀吉
没後、朝鮮遠征軍は撤退し、義智は朝鮮国交回復に努めた。1600年「関ヶ原の戦い」で
義智は西軍に与したが、戦後、徳川家康からお咎めを受けず、所領を安堵されて朝鮮との講
和を命ぜられた。義智は重臣柳川調信や僧景轍玄蘇の協力を得て、朝鮮との国交交渉を進め
た。1607年朝鮮から使節が来日、家康・秀忠と会見して日朝の国交が回復し、1609
年通交貿易規定「己酉約条」を結び、対馬藩と朝鮮との間で貿易が再開された。対馬藩の利
益も保有され、宗氏に貿易仲介の利益を見込んで、幕府から10万石の待遇を受けることに
なるが、実際の土地からの収入は飛び地であった肥前国基肄・養父二郡に於いて1万石余で
あった。また、宗氏は朝鮮から来日し、将軍代替りの際に慶賀の意を表す通信使使節団を護
衛する責任者となり、貿易の管掌と貿易船派遣の特典を与えられ、朝鮮釜山に置かれた倭館
には藩役人が滞在し、江戸時代を通じて日本で唯一の海外居留地であった。1615年義智
が没し、嫡男義成が家督を継ぐ。1631年朝鮮通交の実験を握っていた柳川調信の孫調興
の外交文書の偽造・改竄〔柳川事件〕が発覚し、1635年三代将軍家光の裁決により、調
興は陸奥国弘前藩にお預けとなったが、義成は処分を免れた。事件後、朝鮮との外交文書管
掌の為、城下府中に禅院以酊庵を設け、京都五山の禅僧が輪番制で常駐することになった。
国書の作成は林羅山があたり、様式も朝鮮側からは「日本国大君殿下」、日本からは「日本
国源某」と記することに定まった。義成は1656年に没し、嫡男義真が襲封した。宗家2
1代義真は藩政を一新、1661年から検地は石高制によらず、間尺法をもとにした間高制
という特異な方法で実施、この検地によって蔵米知行〔俸禄制〕を確立した。大身の家臣を
城下に集中させ、城下町府中を整備して藩主の居館を桟原に新築し、1678年本城を桟原
城へ移したが、金石城は江戸末期まで廃することなく、藩の大切な貴賓を迎接する場所、教
学の場として活用、存続した。1813年大手門櫓が火災で焼失するが、幕府より2000
両の貸与を受けて、1817年再建、1919年解体、1990年復元された。1995年
国指定史跡され、2007年旧金石城庭園が国名勝に指定された。現在は体育館、資料館、
公園、広場となり、石垣が残る。

【所感】城域は大手櫓門・搦手門跡・旧金石城庭園・清水が丘多目的広場・厳原体育館・記
念公園が在るエリアで、多目的広場辺りに館が在ったとされます。詰城の清水山城は朝鮮侵
攻、金石城は日朝友好、常に朝鮮を意識し続けてきた対馬。朝鮮の使節団も見たであろう旧
金石城庭園を復元し、記念碑を建て、現在も朝鮮との関係が色濃く残る場所。観光客の殆ど
が韓国人です。








復元 大手櫓門【国指定史跡】






搦手門跡【国指定史跡】





金石川沿い(城跡の南側)の石垣







旧金石城庭園【国名勝】・心字池



李王家 宗伯爵家 御結婚奉祝記念碑



宗義智公像



対馬藩主宗家墓所への石段・万松院【国指定史跡】