肥前 唐津城
Karatsu castle

唐津城跡【佐賀県唐津市東城内8−1・北城内・南城内・西城内・大名小路ほか】

【立地】平山城
【別称】舞鶴城

【唐津藩】1601〜1647年・1649〜1871年

【歴史】1587年秀吉の九州平定後、唐津は松浦党の支族波多信時の領地であったが、1592年「
文禄の役」の際、怯懦の振る舞いがあったことから、1593年改易となる。長崎奉行であった寺沢志
摩守広高が松浦郡内6万3000石余を与えられ、唐津を居所とする。「文禄、慶長の役」の軍功によ
り、広高は筑前国怡土郡2万石を得、1600年「関ヶ原の戦い」で東軍に属し、1601年肥後国天
草郡4万石の加増を受け、合わせて12万3000石で唐津藩を立藩した。1602年満島山〔標高4
1m、比高38m〕に唐津城の築城を始め、九州諸大名の加勢を受け、1608年竣工。広高は領内の
新田開発、松浦川の河口改修工事、「虹の松原」の防風・防砂林の植樹などを行い、1616年総検地
を実施したが、1633年に没し、次男堅高に引き継がれた。1637年広高以来のキリシタン弾圧、
年貢増徴に対する一揆「島原の乱」が起き、松平信綱らの活躍で鎮圧、堅高は天草4万石を没収された
。唐津藩の存続は許されたが、1647年自刃し、嫡子が無かったことから寺沢氏は断絶した。一時幕
領となったが、1649年播磨国明石から大久保忠職が8万3000石で入封し、以後、唐津藩は鍋島
・黒田氏の外様大名の監視役となった。1670年忠朝に継がれ、1676年下総国佐倉へ移る。代わ
って松平乗久が7万石で入り、次の乗春は弟好乗に3000石、乗重に新墾田2800石を分与。16
90年に襲封した乗邑は、弟乗住に3000石、乗興に5000石を分与し、唐津藩は6万石となる。
その後、土井利益7万石−利実−利延と続き、1762年利里は下総国古河へ移封。三河国岡崎から水
野忠任が松浦郡内6万石で入封。忠鼎−忠光と継がれ、1817年忠邦は浜松へ移封、小笠原長昌が入
る。1823年長泰−1834年長会−1836年長和−1841年長国−1857年長行と続き、1
871年廃藩置県を迎える。建造物は解体され、1877年唐津城址公園として開放。1956年舞鶴
海浜公園と改称し、1966年天守・門・塀・櫓などを復興、1989年肥後堀・石垣を復元、199
2年二の丸に時の太鼓、1993年三の丸辰巳櫓を復興した。現在は石垣、水堀が残る。

【所感】唐津城が出来る前は、満島山〔現在の唐津城天守が在る山〕の西側〔二の丸〕が松浦川の河口
で、満島山と虹の松原は陸続きだったそうです。人の力で河口も変えられるんですね。唐津城は佐賀県
で最初に訪ねた城でしたが、既に夕方に差し掛かっていたので、天守周辺しか周ることが出来ず、この
日は唐津で泊りました。二の門堀、松浦川河口周辺の石垣、時の太鼓、虹の松原辺りから見た天守など
、撮りたいポイントは沢山ありましたが、翌日は名護屋城・佐賀城・吉野ヶ里へ行くスケジュールだっ
たので、明朝は直ぐに移動となりました。また、じっくり周りたいですね。





五重五階地下一階 模擬天守・石垣修復工事中


 

二の曲輪南端の石垣〔写真:左〕登城道南側の塀が在った石垣〔写真:右〕

 

坂口門横の石垣・御住居東端〔写真:左〕御住居南西端の着見櫓台〔写真:右〕



天守から見た東方の景色



天守から見た北方の景色



天守から見た西方の景色