常陸 笠間城
Kasama castle


        笠間城跡【茨城県笠間市笠間3613】
笠間城下屋敷跡・山麓公園【茨城県笠間市笠間1015-2】
         真浄寺【茨城県笠間市笠間323-2】
         正福寺【茨城県笠間市笠間1056-1】


【立地】山城
【別称】桂城

【市指定史跡】

【歴史】鎌倉時代初期、正福寺と徳蔵寺が寺領を巡って対立。正福寺の座主生田坊は下野国
の宇都宮頼綱に援兵を求め、1205年頼綱は甥の時朝〔塩谷朝業の次男→宇都宮頼綱の養
子〕を大将に笠間へ出陣した。宇都宮勢は佐白山に陣取る僧兵を蹴散らし、そのままこの地
を支配。1219~1234年宇都宮時朝が笠間城を築き、笠間時朝を称したと云う。12
35年笠間時朝は、鎌倉幕府4代将軍九条〔藤原〕頼経の明王院供養に随兵として従い、1
238年検非違使に就き、1246年従五位下長門守に昇進した。文化面でも歌人として認
められ、二条良実の御簡衆となり、浄土教文化を取り入れるなど辺境にあった笠間に中央文
化を導入する功績を残した。下って、1590年「小田原征伐」の際、笠間氏の宗家宇都宮
国綱が豊臣軍で参戦したのに対し、18代笠間綱家はこれを拒んで滅ぼされた。代わって宇
都宮氏の被官玉生高宗が守り、1597年浅野長政が入る。1598年宇都宮城に蒲生秀行
〔蒲生氏郷の嫡男〕が入ると、笠間城はその支城として秀行の家老蒲生郷成が守った。天守
曲輪や城下町・江戸時代に引き継がれる登城路を整備。1600年「関ヶ原の戦い」の翌年
、蒲生秀行が会津へ移ると、武蔵国騎西2万石から松井松平康重が新恩1万石を加増されて
入封、1608年丹波国篠山5万石へ移封。下総国佐倉3万石から小笠原吉次が入封、16
09年佐倉在藩中の罪を咎められて改易、下館藩主水谷勝隆の預かり地となった。1610
年本堂重親の管理下に置かれ、1612年下総国古河から戸田松平康長が3万石で入封、金
鉱の採掘、城下町荒町を創設し、1616年上野国高崎へ移った。1617年上野国小幡1
万7000石の永井直勝が3万2000石で入封。1619年5万2000石に加増され、
1622年7万2000石で下総国古河へ移った。替わって浅野長重〔浅野長政の三男〕が
常陸国真壁から5万3000石で入封。その子長直が継ぐが、山麓〔下屋敷〕に藩庁を移し
たことが新城建設と疑われ、1645年播磨国赤穂へ転封となった。(浅野長直の孫が吉良
上野介義央を江戸城松之廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩)その後、井上正利・正
任父子が継ぎ、1692年本庄〔のち松平〕宗資(5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の弟)、
1702年井上正岑―正之-正経、1747年牧野貞通-貞長-貞喜-貞幹-貞一-貞勝-
貞久-貞直と続き、貞寧で明治を迎える。2017年続日本100名城に選定。現在は曲輪
、石垣、土塁、堀、井戸跡などが残り、真浄寺に八幡台櫓〔笠間城櫓〕、市内の民家に城門
2棟が移築されている。


【所感】東日本大震災で天守曲輪の石垣が崩落した状態になっていますが、現在、国指定史
跡を目指して調査、修復を行っています。続日本100名城に入っているので、既に国指定
史跡になっていると思い込んでいました。笠間城跡は千人溜りが駐車場になっており、天守
曲輪まで道が整備されています。本丸には北西に延びる尾根先に穴ヶ崎櫓跡、南端に横たわ
るL字型の八幡台〔巨大土塁〕上に八幡台櫓跡、本丸×天守曲輪間に築かれた土橋を渡り、
石段を上ると天守曲輪・天守台です。私が面白いと感じたのは八幡台。高く・長く・幅広い
、櫓が乗ってしまう程のこの巨大土塁は他ではお目に掛かれない遺構です。東麓には江戸時
代初期に築かれた笠間城下屋敷跡〔笠間陣屋跡〕や大石邸(浅野家の家老大石内蔵助良雄の
曽祖父・祖父の屋敷)があり、こちらも駐車場があって訪ね易くなっています。近くに笠間
麓城も有ったようですが、その場所は笠間稲荷神社と言われています。




千人溜り跡・駐車場



笠間城大手門跡と石垣



井戸跡



本丸玄関門下の石垣



穴ヶ崎櫓跡



八幡台の上に建つ東屋



八幡台(大土塁)



八幡台櫓跡



八幡台から見た本丸北エリア



八幡台から見た本丸南エリア



本丸南エリアから見た八幡台櫓台



本丸南エリア南端の土塁



本丸と天守曲輪を繋ぐ土橋



土橋〔堀切〕の下を通るトンネル



天守曲輪へ向かう石段







東日本大震災で崩落した天守曲輪の石垣・佐志能神社〔天守跡〕



笠間城主下屋敷跡・笠間陣屋跡・山麓公園



大石邸跡〔大石内蔵助良勝・良欽父子の屋敷〕