琉球 勝連城
Katsuren castle

勝連城跡・勝連城跡休憩所【沖縄県うるま市勝連南風原3908】

【立地】平山城
【別称】賀通連城

【ユネスコ世界文化遺産】琉球王国のグスク及び関連遺産群
【国指定史跡】勝連城跡

【歴史】13世紀頃、琉球石灰岩から成る標高94mの台地に築かれた平山城で、英祖王統
2代大成王[1300〜1308年]の五男が勝連按司の初代とされる。察度王[1321
〜1395年]の妃、第一尚氏王統3代尚忠の妃は勝連按司の娘と云う。勝連按司は5代ま
で続き、世継ぎが出来なかった為、6代は伊波按司の六男が継ぎ、7代・8代は浜川按司系
、9代は茂知附[望月]按司、10代は阿麻和利となる。阿麻和利は屋良グスクの屋良大川
按司と百姓娘の間に生まれ、生まれ付き身体虚弱で10歳まで歩けず、山に捨てられたとい
う伝承もある。才覚に優れた阿麻和利は底辺から勝連城9代茂知附按司の配下にまで伸し上
がった。積極的な貿易で富を得た茂知附按司は酒食に溺れ、政権は衰退。阿麻和利は民衆を
代表して茂知附按司討伐に動く。松明を持った民衆が、勝連グスクへ歩くことで敵軍の侵攻
と見せかける作戦を実行。酒宴の席、阿麻和利は敵軍の来攻を報告すると、酔っぱらった茂
知附按司は物見台へ駆け上がり、松明の行列を見ようと身を乗り出したところを殺害した。
政権を奪取した10代阿麻和利は第一尚氏王統6代尚泰久の娘を娶り、1458年王権奪取
を企てる。先ずは王府の有力武将護佐丸に謀反の疑いを掛け、自ら王府軍を率いて中城グス
クへ出陣、護佐丸・夫人・長男・次男を自害させた。しかし、阿麻和利の夫人百度踏揚[尚
泰久の娘]は、自身の側近大城賢雄から夫の中山攻略を知らされ、直ちに父尚泰久へ報告。
尚泰久は自ら命じた護佐丸討伐を悔い改め、城の護りを固め、首里城の戦いで阿麻和利軍を
撃破。勝連城へ敗走した阿麻和利は大城賢雄を大将とする政府軍に討ち滅ぼされた。187
9年廃琉置県により沖縄県になり、大正時代[1912〜1926年]以降、海岸整備工事
や建設用資材として城壁の石材が使われ、石垣が喪失した。1964年発掘調査が始まり、
1972年国指定史跡、2000年ユネスコ世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産
群」、2006年日本100名城に指定される。現在は曲輪、石垣が残る。

【所感】勝連城跡は一の曲輪から二・三・四の曲輪まで隣り合わせに並ぶ連郭式城郭です。
丘陵の形状に合わせて階段状に築かれ、曲輪の側面に切り立った石垣、東の曲輪まで城壁で
囲み、総石垣造りになっています。一の曲輪は海・街が見渡せる展望台、沖縄に来ると、必
ず訪ねる城跡です。





勝連城跡







三の曲輪から東の曲輪まで続く石垣



マチダ ナケージガー・井戸跡



西原御門口のカー・井戸跡



仲間ヌウカー・井戸跡





四の曲輪



ウタミシガー・井戸跡・四の曲輪



ミートゥガー・井戸跡・四の曲輪







三の曲輪へのアプローチ





三の曲輪門跡







三の曲輪





二の曲輪



ウミチムン(火の神)・二の曲輪



ウシムジガマ・二の曲輪



一の曲輪へのアプローチ



一の曲輪門跡から見た曲輪



一の曲輪から三の曲輪まで続く石垣





一の曲輪門跡



玉ノミウヂ御嶽・一の曲輪







一の曲輪



一の曲輪の石垣