越前 勝山城
Katsuyama castle

  
  勝山市市民会館【福井県勝山市元町1丁目5−16】
    勝山市役所【福井県勝山市元町1丁目1−1】
      西方寺【福井県勝山市元町1丁目5−21】
  勝山市教育会館【福井県勝山市元町1丁目5−6】

     中央公園【福井県勝山市元町1丁目5】
  ケイテー保育園【福井県勝山市元町1丁目8−17】

でんきランドしばた【福井県勝山市元町1丁目8−21】
    サンプラザ【福井県勝山市元町1丁目7−28】

  Park三の丸【福井県勝山市元町1丁目9−5】
   とちき整体院【福井県勝山市元町1丁目9−21−8】
 なか・クリニック【福井県勝山市元町1丁目5−6】

   勝山城博物館【福井県勝山市平泉寺町平泉寺85−26−1 】

【立地】平城
【別称】袋田城


【歴史】1579年村岡山城主〔勝山市村岡町〕で柴田勝家の一族柴田勝安〔勝成〕が、袋
田に城を築いて「勝山」と改称したことに始まる。1583年「賤ケ岳の戦い」で勝安が没
すると、丹羽長秀の家臣成田重政、長谷川秀一の居城となった。1600年「関ヶ原の戦い
」後、1601年北庄〔福井〕城主結城秀康・松平忠直父子の支配下で、林長門守・矢野伝
左衛門らが在城したが、1615年幕府が制定した「一国一城令」で廃城となる。1624
年福井藩主結城秀康の五男松平直基が勝山に3万石で入った。1635年越前大野へ転じた
為、秀康の六男直良が越前国木本2万石から1万石の加増を受けて入封した。1644年直
良もまた越前国大野5万石へ移り、勝山は一時天領となって代官が置かれた。1691年美
濃国高須から小笠原貞信が2万2700で入封、勝山藩が再立藩された。貞信は高木貞勝の
長子で、1640年小笠原政信の養子となって小笠原家を相続した。しかし、幼少の襲封で
あった為、下総国関宿藩主の任が務まらないとの理由で、美濃国高須に移されて城主格を失
っていた。孫の信辰が跡を継ぎ、幕府に嘆願して、1708年城主格を与えられた。170
9年旧城の再建という名目で幕府から築城の許可が下り、軍学者山鹿素行の設計で着工。梯
郭式の縄張りで築かれたが、財政窮乏により天守などは築かれず、未完で終わっている。信
辰の後、信成−信胤−信房−長教−長貴−長守と続いた。1840年長守は家老林毛川に命
じて藩政改革に着手し、人材登用の為、藩校成器堂を創設、また、講武台を築いて武備の強
化を図った。更に煙草・生糸などの生産販売を促進し、近代勝山産業発展の基盤となった。
幕末維新期は京都の警備、新政府への恭順と大勢に順応し、1871年廃藩置県を迎えた。
城郭の建物は売却、天守台と本丸堀の一部を残して埋め立てられ、1967年市民会館建設
を機に削平され、天守台跡地に長守筆の勝山城址之碑が立つ。


【所感】現在は市民会館の南西側に城址碑・縄張り図の石碑が有るのみで、遺構は全く有り
ません。市役所の南西側や教育会館の北西側に回ってみると、一段低くなっているので、城
が台地端に在ったことは分かります。曲輪の形においても町の区画と一致しておらず、完全
に消滅してます。およそですが、本丸は西方寺+市民会館(天守台)+市役所+中央公園の
西1/3、二の丸は教育会館+中央公園の東2/3+サンプラザ+ケイテー保育園+でんき
ランドしばた、三の丸=Park三の丸+とちき整体院+なかクリニックになります。





勝山城址之碑



小笠原氏越前勝山城の石碑