美濃 川手城
Kawate castle

済美女子高校【岐阜県岐阜市正法寺町33】

【立地】平城
【別称】革手城

【市指定史跡】

【歴史】土岐頼康の築城とされる。土岐頼康は清和源氏の一族で、父である美濃国2代守護
職土岐頼遠の後を継いで土岐惣領となり、足利尊氏の命で信濃・伊予を平定。その軍功から
美濃・尾張・伊勢3国の守護職となった。1353年6月、長森城から革手城を築いて移る
。旧木曽川と現荒田川を改修し、天然の地の利を活かした広大な城域で、七堂伽藍を持つ正
法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ、神社仏閣・数多くの平屋建築が建つ、御殿風〔都風
〕の城であったとされる。1467〜1477年「応仁・文明の乱」の際、都を追われた公
家・百官・天上人が守護大名を頼って寄宿し、一条兼良・雪舟等楊・足利義視など当代一流
の文化人・有力者が多く当地へ訪れ、都文化の花を咲かせた。1495年美濃国8代守護職
土岐成頼が長男政房に代えて四男元頼を跡継ぎにしようとした為、守護代の斎藤氏や家臣の
石丸氏が内紛に介入し、相続争いが起こる〔船田の乱〕。結果、政房が9代守護職となるが
、革手城・正法寺・船田城一帯は三日三晩燃え続け、焦土と化したと云う。1534年頃、
土岐氏を追放した斎藤道三は革手に固執することなく、居城を稲葉山に構え、革手城は廃城
となる。1600年頃、加納城築城の際、革手城・正法寺一帯の土砂を使い、跡形も無い状
況となった。現在、済美女子高校の一角に城址碑が立つが、城跡の場所は正法寺が在った薬
師町の南、光樹町辺りと推定され、船田城は主水町辺りと推定される。


【所感】西の新荒田川、東の境川に挟まれた地に川手城跡が在ります。城跡碑は済美女子高
校を南北に二分する道沿いの小公園で、詳しく書かれた「革手城の由来」の看板とともに有
ります。正法寺跡の石碑は有りますが、川手城と船田城の推定地には城跡と分かる標柱は特
に有りません。



 

川手城跡の碑・岐阜市正法寺町〔写真:左〕川手城推定地・岐阜市光樹町〔写真:右〕


 

船田城推定地・岐阜市主水町1丁目〔写真:左〕正法寺跡・岐阜市薬師町〔写真:右〕