和泉 岸和田城
Kishiwada castle

岸和田城・千亀利公園【大阪府岸和田市岸城町9】
岸和田市立郷土資料館【大阪府岸和田市岸城町9−1】
       心技館【大阪府岸和田市岸城町7−20】
クラブ・コントラーダ【大阪府岸和田市岸城町7−22】
  岸和田城跡の看板【大阪府岸和田市野田町1丁目14】
岸和田藩主松平康重墓【大阪府岸和田市南町16】
 岸和田城防潮石垣跡【大阪府岸和田市中町3】

【立地】平城
【別称】岸ノ和田城・滕城・猪伏山城・千亀利城・蟄亀利城

【天守の構成・形式】連結式望楼型天守

【国名勝】岸和田城庭園(八陣の庭)
【府指定史跡】

【歴史】1585年4月豊臣秀吉が根来・雑賀一揆を平定すると、岸和田城主の中村一氏は
、近江国水口城へ移され、代わって小出秀政が岸和田城に封ぜられた。秀政は和泉国南部の
うち岸和田1400石余、麻生郷2500石などを与えられ、1594年和泉国南・日根両
郡に於いて6000石の加増を受け、1595年更に大鳥・日根両郡に於いて2万石を加え
られ、3万石で岸和田藩を立藩した。秀政は岸和田城の普請を始め、1598年天守や櫓が
完成した。1604年3月秀政が没し、嫡男の但馬国出石3万石藩主吉政が遺領を相続した
。1600年「関ヶ原の戦い」の際、吉政は西軍に属して丹波国田辺城を攻撃に参戦したが
、弟秀家が東軍に属して戦った為、旧領を安堵された。1613年2月吉政が没し、出石藩
3万石を継いだ嫡男費吉英が、但馬国養父・気多・美含3郡と和泉国大鳥・日根郡内で5万
石を領有したが、1619年吉英は出石へ移り、丹波国篠山5万石から松井松平康重が入封
した。康重の封地は5万400石であったが、所領の良田を理由に1万石加増の軍役を上申
が認められ6万石となった。1640年嫡男康映が遺領を継ぎ、甥康明に5000石、弟康
命に3000石、康紀に2000石を分与し、同年、播磨国山崎へ転封となった。次に康映
の正室の父にあたる岡部宣勝が摂津国高槻から岸和田6万石へ入封した。一説によれば、3
代将軍家光が信任厚い宣勝を当地に封じたのは、和歌山藩の押さえの為と云う。宣勝が入封
に際して108ヶ村の農民が1万石の夫役増高取消しを強訴したので、宣勝は農民らの窮状
を聞いて、総石高から3000石を減らして108ヶ村均一に戻し、一揆を未然に防いだ。
1661年宣勝の後を継いだ嫡男行隆は、弟高成に5000石、豊明に2000石を分与し
、岸和田藩は5万3000石となった。1662年行隆は金・銀・銭札などの藩札を発行し
た。1686年9月長泰が家督を継ぐ。岸和田藩は本領の他に新田開拓の運上課役などが2
万3000石余もあり、藩財政も豊かであったが、父行隆の安政方針を固く守って華奢遊楽
を戒めた。その後、1721年長敬−1724年長著−1756年長住−1771年長修−
1776年長備−1803年長慎−1833年長和−1850年長発−1855年長寛−1
868年長職が継ぎ、1869年版籍奉還、1871年廃藩置県を迎え、櫓・門・堀などが
取り壊された。1827年落雷によって焼失した天守は1954年に復興、1969年本丸
の城門・隅櫓が復興される。2017年続日本100名城に選定。現在、本丸を千亀利公園
、二の丸を二の丸広場と称して観光地化され、石垣、水堀がよく残る。

【所感】現在、本丸と二の丸の曲輪・石垣、それらを囲む水堀がよく残されています。本丸
は「千亀利公園」と称され、櫓門、隅櫓と多聞櫓、大天守、小天守の建物が建ち、中央に国
指定名勝「岸和田城庭園(八陣の庭)」があります。二の丸は二の丸広場と称され、心技館
(武道場)、クラブ・コントラーダ(レストラン)と二の丸多聞櫓と書かれたトイレ、北隅
に伏見櫓跡があります。また、周辺には岸和田城薬園跡・岸和田城防潮石垣・松平康重の墓
などがあり、半日程は史跡を散策出来るエリアになってます。本丸の南側と二の丸の南側に
駐車場が在りますので、車で来ても十分止められます。















模擬天守 三重三階 大天守・本丸地盤からの高さ:27m




本丸櫓門



岸和田城址碑・本丸



隅櫓と多聞櫓・本丸



岸和田城庭園(八陣の庭)【国名勝】




二の丸広場



二の丸多聞櫓跡・トイレ



伏見櫓跡・二の丸



二の丸堀



岸和田藩薬園跡【市指定史跡】



岸和田城防潮石垣【市指定史跡】



岸和田藩主松平康重墓【市指定史跡】



三の丸神社



和田氏居城傳説地の石碑と岸和田古城跡の看板