豊後 杵築城
Kitsuki castle

  杵築城跡【大分県杵築市杵築城山16-1】
杵築市民会館【大分県杵築市杵築15-1】
  青筵神社【大分県杵築市杵築】
 杵築中学校【大分県杵築市杵築城1】

【立地】平山城
【別称】木付城・臥牛城・台山城・勝山城
【天守の構成・形式】独立式望楼型天守

【歴史】1250年豊後大友氏2代親秀の六男親重は鎌倉幕府より豊後国速見郡武者所に任じられ、八
坂郷木付荘3500貫を与えられた。以後、親重は木付氏を称し、竹ノ尾城を築いて初代親重-2代能
重-3代貞重-4代頼直と続いたが、1393~1394年4代頼直が高山川と八坂川の河口にあたる
台山に木付城を築いて居城を移したと云う。1586年島津の豊後攻めでは府内、日出の諸城が落ち、
木付城島津勢に囲まれた際、16代鎮直は2ヶ月の攻撃によく耐え、豊臣秀吉の援軍が小倉方面から南
下の知らせが入ると、島津勢は撤兵の構えを見せた。鎮直は直ちに島津軍追撃の命令を下し、城外へ出
て島津勢に襲い掛かった。結果、島津勢は多くの犠牲者を出しながら敗走し、後に大友義統の府内城を
奪回。この時、臼杵城で防戦していた大友宗麟は木付鎮直に感謝状を贈り、名を勝山城と改めた。15
93年「文禄の役」の際、17代統直は大友軍の将として参戦したが、大友義統は小西行長軍を救援せ
ず見殺しにしたということで秀吉の怒りを買い、領国を没収、周防山口に幽閉された。木付統直は息子
の直清を「鳳山の戦い」で失い、自身も帰国途中の門司の浦で自刃・入水、木付氏は17代で滅んだ。
その後、杉原長房-早川長政が入り、1599年早川氏が旧領府内へ移ると、丹後国宮津12万石の細
川忠興の領地となった。忠興は速見郡内6万石を加増され、杵築城に重臣松井康之、有吉立行らが入っ
て城代を務めたが、1600年「関ヶ原の戦い」の戦功により、細川忠興は豊前一国の領有が認められ
、速見・杵築6万石を合わせて39万余石を得て中津城主となった。1632年忠興の子忠利が肥前国
熊本へ転封となり、上総・下総国内5000石の旗本小笠原忠知が4万石で杵築城へ入り、杵築藩を立
藩した。1645年忠知は三河国吉田へ移り、豊前国高田から能見松平英親が3万7000石で入封。
英親は入封直後、弟重長に3000石、直政に2000石を分与し、杵築藩は3万2000石となる。
その後、重栄-重休-親純-親盈-親貞-親賢と続き、藩校学習館を創設した。親明-親良を経て、1
868年親貴が最後の藩主となり、廃藩置県を迎える。1970年模擬天守が復興され、現在は公園、
神社、市民会館に変わり、曲輪が残る。

【所感】手元に詳しい資料が無いので分かりませんが、天守+墓石群=本丸、城山公園=二の丸、青筵
神社+杵築市民会館=三の丸、杵築中学校の校舎辺りが御殿場、グランド辺りが御武具方であったと思
われます。天守からの景色は最高。八坂川や守江湾が一望出来、大分遠征最初の訪城先で良かったと感
じました。




模擬 三重三階 天守・本丸







天守からの景色



天守から見た本丸



本丸・墓石群



本丸-二の丸間の門



二の丸・城山公園





国道213号線から見た天守




杵築城登城口の城下町散策マップ