土佐 高知城
Kochi castle

    高知城【高知県高知市丸ノ内1丁目2-1】
   高知県庁【高知県高知市丸ノ内1丁目2-20】
高知県立図書館【高知県高知市丸ノ内1丁目1-10】
高知県立文学館【高知県高知市丸ノ内1丁目1-20】

【立地】平山城
【別称】鷹城・大高坂城
【天守の構成・形式】独立式望楼型天守

【国指定史跡】高知城跡
【国重要文化財】高知城天守、懐徳館、詰門、東多聞、廊下門、納戸蔵、西多聞
        追手門、矢狭間塀、黒鉄門

【歴史】戦国期の土佐国は「土佐七豪族」と呼ばれる土豪達が割拠していたが、1575年長曽我部元
親が土佐一国を平定し、岡豊城〔高知県南国市〕へ入った。更に元親は阿波・讃岐・伊予の3国を次々
と攻略、1585年四国統一を果したが、同年、秀吉の「四国征伐」で秀吉の弟羽柴秀長軍に敗れ、阿
波・讃岐・伊予国を没収、土佐一国は安堵されて浦戸城へ入った。その後、元親は秀吉に従い「九州征
伐」「文禄・慶長の役」に出兵したが、1599年京都伏見の屋敷で没した。元親の次男盛親が家督を
継ぐが、1600年9月「関ヶ原の戦い」で西軍に与し、戦後、10月に所領を没収された。長曽我部
氏除封後、遠江国掛川から山内一豊が封ぜられるが、長曽我部氏の遺臣〔一領具足〕が国内に数多く住
み、浦戸城受け取りの上使が来た時も徒党を組んで反抗した。この為、一豊は弟康豊を先に入国させ、
領内の庄屋を集め、国の仕置について長曽我部氏と変わらない、山内家に仕えるようにと説得したが、
長曽我部氏の遺臣らによる一揆が起こり、山内家との小競合いが多く起こった。1601年1月山内一
豊が20万2600石(後に39万2000石→49万5000石)で浦戸城へ入り、新城を築城の地
として大高坂山を選定。6月より計画を練り、8月百々安行を築城総奉行に命じ、9月初旬築城に着手
した。1603年本丸・二の丸が完成、8月一豊が入城。一豊は近江・遠江国から商人を呼び寄せて城
下町を造り、1605年藩政に着手しようとするが、9月20日に没し、嫡子が無かった為、弟康豊の
嫡男忠義が家督を継いだ。忠義は幼少である為、初めは父康豊が後見を務めた。新城は「河中山」と名
付けられるが、潮江・江ノ口の両川の間に位置しており、しばしば洪水が起こった為、2代忠義は「河
中」の文字を嫌い、1610年「高智山」(河中と同音、後に高知と改める)と改称、「高知城」の名
が定まった。1611年三の丸が完成したが、土地が狭かった為、大高坂山と小高坂山の間にあった中
高坂山を崩して、その土を盛り上げたものと伝わる。1656年忠義没後、嫡男忠豊が襲封し、弟忠直
に3万石を分与して中村藩を立藩した。その後、1669年豊昌-1700年豊房-1706年豊隆-
1720年豊常-1725年豊敷と続き、1727年城下町の大火で追手門・西門・北櫓を残して全焼
、1753年城郭再建を果たす。1760年藩校教授館を創設。1768年豊雍-1772年豊策-1
808年豊興-1809年豊資-1842年豊熈を経て、1848年1月豊熈の弟豊惇が継ぐが、直ぐ
に隠居、同年12月分家の南家から豊信〔容堂〕が襲封した。1853年山内容堂は大目付役の吉田東
洋を仕置役〔参政〕に抜擢し、藩政改革に着手するが、1854年6月幕府旗本の松本嘉兵衛と紛争を
起して謹慎となった。蟄居の間、東洋は私塾「少林塾」を開き、後の「新おこぜ組」のメンバーとなっ
た後藤象二郎・福岡孝弟・岩崎弥太郎・板垣退助・谷干城など有能な人材を輩出した。1857年吉田
東洋は参政に復職し、「新おこぜ組」の支持により、無能な保守派の重臣を斥け、農民の国産品生産の
奨励、藩権力による統制強化、鉄砲・造船を含む洋式軍備の採用などを実施した。13代将軍家定の後
嗣問題が起こると、山内容堂は一橋慶喜擁立を支持するが、和歌山藩主徳川家茂を擁立する大老井伊直
弼に敗れ、1859年「安政の大獄」によって隠居謹慎を命ぜられ、嫡男豊範が襲封した。これをきっ
かけに土佐藩は尊王攘夷運動が高まり、1861年8月武市半平太を頭とする土佐勤王党が結成された
。半平太は土佐藩を薩摩・長州藩と同様に勤王論を固めようと吉田東洋を説得したが、山内容堂の意を
受けた公武合体路線をとる東洋は応じず、遂に武市半平太は東洋暗殺を決意、1862年4月8日に決
行した。やがて復権した山内容堂は土佐勤王党の弾圧に乗り出し、武市半平太を初め多数の勤王党員が
投獄され、首領の武市半平太は切腹を命ぜられた。1866年吉田東洋の遺策を継承した後藤象二郎は
、山内容堂の命を受けて開成館を設立、蒸気機関学や航海学、海軍砲術などの教育を行った。更に岩崎
弥太郎を責任者として、積極的に長崎貿易を実施して富国強兵を図った。1867年6月坂本龍馬が起
草した「船中八策」構想を後藤象二郎に託し、山内容堂の賛同を得て幕府に提出され、15代将軍慶喜
は10月14日「大政奉還」を上奏した。土佐藩の努力が結実し、無血政権交代が実現した。11月1
5日龍馬は陸援隊長中岡慎太郎と共に刺客に討たれた。1868年1月「鳥羽・伏見の戦い」では土佐
藩は薩摩・長州藩と共に参戦し、板垣退助率いる藩兵は「戊辰戦争」で奥羽へ転戦、戦後、賞典禄4万
石を下賜された。1871年廃藩置県を迎える。1873年二の丸・三の丸を建造物が取り壊され、1
874年高知城公園として県民に開放された。1934年天守など15棟が国宝→1950年国重要文
化財に再指定され、1959年国指定史跡となる。現在は高知公園、城西公園、県庁、図書館となり、
天守、門、塀、石垣、水堀などが残る。

【所感】高知遠征は2泊3日で行き、高知城は1日目のPM、3日目のAMで訪ねました。時間が許す
限り主要なエリアから撮り始めましたが、やはり全てを撮り収めることは出来ませんでした。高知城は
本丸に建物が集中して残っていますが、天守と御殿の両方が残る城はココだけです。今回初めてライト
アップされた城を撮りましたが、今後もライトアップ情報を事前に入手して、城の近くに宿泊して撮っ
て行こうと思います。


 

 

 





現存 三重六階 天守【国重要文化財】天守本体の高さ:18.5m



天守から見た本丸



天守から見た二の丸



天守から見た三の丸

 

天守6階【国重要文化財】〔写真:左〕天守5階・小屋の段【国重要文化財】〔写真:右〕

 

天守4階【国重要文化財】〔写真:左〕天守3階【国重要文化財】〔写真:右〕

 

天守2階【国重要文化財】〔写真:左〕天守1階【国重要文化財】〔写真:右〕



 

天守【国重要文化財】と壊徳館(本丸御殿)【国重要文化財】

 

 

壊徳館内部(本丸御殿)【国重要文化財】

 

納戸蔵内部・壊徳館(本丸御殿)【国重要文化財】

 

廊下門【国重要文化財】

 

東多聞内部【国重要文化財】〔写真:左〕東多聞から廊下門への入口【国重要文化財】〔写真:右〕

 

廊下門内部【国重要文化財】

 

西多聞【国重要文化財】〔写真:左〕二の丸から見た廊下橋【国重要文化財】〔写真:右〕

 

廊下橋・詰門【国重要文化財】〔写真:左〕廊下橋内部【国重要文化財】〔写真:右〕



本丸黒鉄門【国重要文化財】と矢狭間塀【国重要文化財】



三の丸から見た天守【国重要文化財】と鐘撞堂

 

鐘撞堂〔写真:左〕杉の段の井戸跡〔写真:右〕



杉の段から見た三の丸石垣

 

石樋〔写真:左〕国宝 高知城の石碑・追手門前〔写真:右〕





追手門【国重要文化財】と天守【国重要文化財】

 

 

追手門【国重要文化財】

 

高知城自由の広場南側の水堀〔写真:左〕高知城自由の広場東側の水堀〔写真:右〕

 

高知県庁西側の水堀〔写真:左〕高知県庁南側の水堀〔写真:右〕