甲斐 甲府城
Kofu castle

    舞鶴城公園・甲府城跡【山梨県甲府市丸の内1丁目】
山梨県警察本部・県議会議事堂【山梨県甲府市丸の内1丁目6−1】

【立地】丘城
【別称】舞鶴城・甲斐府中城・府中城・一条小山城・赤甲城

【県指定史跡】

【歴史】1582年「天目山の戦い」で武田氏を滅ぼした信長は、同年「本能寺の変」で討
たれ、甲斐国は家康の領国となった。家康は躑躅ヶ崎館南2キロ程の一条小山に新城築城を
決め、平岩親吉を1万3000石の城代として入れ、縄張に着手した。1590年家康関東
移封後、秀吉の甥羽柴秀勝が封ぜられたが、翌1591年美濃国岐阜へ転封となる。代わっ
て近江国佐和山から加藤光泰が24万石で入封するが、1592年「朝鮮の役」で陣没し、
嫡男貞泰に継がれた。1593年貞泰は美濃国黒野4万石へ転封となり、代わって若狭国小
浜から浅野長政・幸長父子が入り、甲府城を完成させて後、城下町の整備も進められた。1
596年領内総検地が実施され、領内支配に努力したが、強行検地であった為、多数の農民
が逃散したと云う。この時の知行は長政が5万5000石、幸長が16万石。1600年「
関ヶ原の戦い」の後、幸長は紀伊国和歌山へ移り、甲斐国は家康の領有となった。1601
年上野国厩橋〔前橋〕の平岩親吉が6万3000石で城代として再入封した。1603年家
康の九男義直が25万石で入るが、幼少であった為、親吉が傳役として国政を担った。16
07年義直は尾張国清洲62万石へ移封となり、尾張徳川家の祖となる。同じく親吉も付家
老として尾張国犬山9万3000石へ移り、甲府城は城番が置かれた。1616年2代将軍
徳川秀忠の三男忠長が23万8000石で入り、1622年信濃国小諸7万石の加増を受け
、1624年甲斐・信濃・遠江・駿河を合わせて55万石を領して駿府城へ移った。しかし
、1632年秀忠没後、“3代将軍家光を亡き者にして駿河殿〔忠長〕を御代にする”と云
う怪文書が回り、忠長はその罪を蒙って甲府へ蟄居、1633年上野国高崎城下の長松寺で
自刃した。その後、暫くは幕領であったが、1651年3代将軍家光の三男綱重が14万4
000石で入り、1661年甲斐・武蔵・信濃・近江国内で25万石を領した。1678年
綱重没後、嫡子綱豊に継がれたが、5代将軍綱吉に嫡子が無かった為、1704年綱豊は綱
吉の養子となって家宣と改名し、1709年綱吉没後、6代将軍に就任した。代わって武蔵
国川越から柳沢吉保が15万1200石で入封し、甲府城の改修、城下町の整備を行い、甲
府の最盛期を迎えた。1709年5代将軍綱吉病没の年、吉保も隠居に入り、嫡男吉里に継
がれたが、1724年大和国郡山転封を最後に府中藩は廃藩となった。その後、甲斐国は天
領に編入され、甲府勤番支配となるが、1727年甲府城内で火災が発生し、本丸以下櫓、
門などが焼失した。1866年より城代が置かれ、1874年廃城となる。現在は舞鶴城公
園と称され、曲輪、石垣、堀、土塁、井戸跡などが残り、1999年稲荷曲輪門、内松陰門
、鍛冶曲輪門、2004年稲荷櫓、2007年山手御門が復元されている。

【所感】県道31号線、山梨県警察本部、県議会議事堂、山梨県庁北別館の東隣りに位置し
、JR中央本線南に甲府城跡の舞鶴城公園、JR中央本線北に山手御門の甲府市歴史公園が
在ります。総石垣造りの甲府城跡は市の中心部に位置する丘地で、石垣好きには堪らない城
跡です。櫓1つ、門4つの復元も加わり、観光地として一般の方でも楽しめる内容になって
います。山梨へ来たら、躑躅ヶ崎館跡の武田神社とセットで訪ねて欲しい城跡です。



 

二重二階 復元 稲荷櫓〔写真:左〕復元 内松陰門〔写真:右〕


 

復元 鍜冶曲輪門〔写真:左〕復元 稲荷曲輪門〔写真:右〕

 

復元 山手渡櫓門

 

復元 山手門〔写真:左〕復元 山手御門土塀〔写真:右〕

 

天守台北東角〔写真:左〕天守台内部〔写真:右〕

 

天守台南面〔写真:左〕稲荷曲輪から見た天守台〔写真:右〕

 

本丸櫓台〔写真:左〕天守台と本丸入口の石垣〔写真:右〕

 

銅門跡南側の石垣〔写真:左〕銅門跡〔写真:右〕

 

本丸南側の合坂〔写真:左〕鉄門跡〔写真:右〕

 

坂下門跡〔写真:左〕中の門跡〔写真:右〕

 

天守曲輪石垣〔写真:左〕鍜冶曲輪から見た本丸〔写真:右〕

 

南側の水堀〔写真:左〕遊亀橋と本丸・天守台〔写真:右〕

 

数奇屋櫓台と数奇屋曲輪石垣〔写真:左〕稲荷曲輪石垣北東角〔写真:右〕

 

石切場跡〔写真:左〕水溜跡〔写真:右〕

 

天守台から見た本丸〔写真:左〕甲府城跡の石碑と舞鶴城公園案内図〔写真:右〕