駿河 興国寺城
Kohkokuji castle

興国寺城跡・穂見神社【静岡県沼津市根古屋】
       本法寺【静岡県沼津市根古屋579】

【立地】丘城
【別称】根古屋城・杜若城・久窪城・深田山城・高国寺城

【国指定史跡】興国寺城跡

【歴史】興国寺城は愛鷹山南麓の丘陵端〔標高35m、比高20m〕に位置し、築城以前に
興国寺が在ったことに由来する。また、付近一帯にカキツバタが群生していたことから、杜
若城とも呼ばれた。築城者は、北条早雲〔1456〜1519年〕とも今川義元〔1519
〜1560年〕とも云われ、北条早雲の興国寺城は本法寺辺りに在ったなど、築城年も含め
て定まっていない。伊勢新九郎長氏〔北条早雲〕の出自は、備中国高越城〔岡山県井原市〕
の城主伊勢盛定の子が有力とされ、駿河国入りは妹の北川殿が今川義忠に嫁いだことが縁と
される。1476年今川義忠が遠江国横地・勝間田氏征伐の帰り、塩買坂で残党に討たれる
と、今川家中は三浦二郎左衛門・朝比奈又太郎・九島上総介・九島土佐守らが乱を起し、後
継者争いとなる。北川殿と義忠の子竜王丸は丸子城へ逃れ、内乱鎮定の為に関東官僚の執事
扇谷上杉定正は太田道灌を駿河へ送り、伊勢長氏と協力して竜王丸氏親の擁立に成功。その
功により富士郡下方12郷を得て、興国寺城主となった。1491年足利政知の死後、14
93年堀越公方の内紛に乗じて伊豆へ侵攻、足利茶々丸を滅ぼし、1500年頃、韮山城を
築いて移った。興国寺城は駿河・甲斐・伊豆の境界に在った為、今川・武田・後北条の争奪
戦が起こり、城主も目まぐるしく替わった。1549年頃、今川義元が城を新造、或いは、
改修している。永禄年間〔1558〜1570年〕は駿河に侵入した後北条の城、元亀年間
〔1570〜1573年〕武田・後北条の同盟成立以降は武田の家臣穴山梅雪の持城となり
、城番として保坂掃部→向井伊賀守正重→曾根下野守正清らが守った。1582年「天目山
の戦い」で武田勝頼が討たれると、正清は徳川家康に降伏し、開城して家臣となった。その
後、三河国の牧野康成→竹谷松平清宗・家清父子らが入る。1590年秀吉の「小田原征伐
」後、中村一氏が駿河国14万5000石で駿府城へ入り、興国寺城は一氏の家臣川毛惣左
衛門尉重次が護った。1600年「関ヶ原の戦い」後、家康の属城となって三河三奉行の一
人天野三郎兵衛康景が1万石・外領2万石で城主となる。1606年春、城の修築用に集め
ていた竹を天領の農民が盗み、家臣がその盗人を斬殺。この事件を代官井出志摩守正次が駿
府の家康に訴え、斬殺した家臣を引き渡すように命ぜられたが、天野康景はこれを拒み、1
607年領地を放棄して小田原の西念寺に蟄居。これにより康景は除封となり、興国寺城は
廃城となった。1995年国史跡に指定され、現在も発掘調査が進む中、曲輪、土塁、空堀
、石垣などを見ることが出来る。

【所感】国道1号線原東町信号交差点から1.4Km程県道165号線を北上すると、突き当
たりが根古屋信号、正面の「興国寺城跡整備計画図」が描かれた巨大看板が目に入って来ま
す。城跡はこの看板の背後一帯です。根古屋信号から県道22号線を60m程東進して左折
すると、終点が本丸と穂見神社です。事前に縄張り図を見ていましたが、想像を超える巨大
な土塁に驚きました。本丸西端、東端の土塁でも充分ですが、本丸北端の土塁はまるで壁の
様、展望台のような土塁からは本丸・二の丸、そして南方の市街地が一望出来ます。本丸の
北側には本丸土塁を包み込むように深い空堀が横たわり、これも必見。その背後に北曲輪も
在って、北曲輪−本丸−二の丸−三の丸と南北に並ぶ、連郭式の縄張りになっています。






本丸




本丸東端の土塁



伝天守台石垣




伝天守台の礎石(2棟)・本丸北端土塁









本丸北端の土塁







本丸西端の土塁



穂見神社・本丸



北曲輪北側の横堀




北曲輪












本丸土塁北側の大空堀





二の丸



三の丸