豊前 小倉城
Kokura castle

     小倉城跡【福岡県北九州市小倉北区城内2−1】
     八坂神社【福岡県北九州市小倉北区城内2−2】
   北九州市役所【福岡県北九州市小倉北区城内1−1】
  小倉DCタワー【福岡県北九州市小倉北区室町2丁目9−1】
リバーパーク北九州【福岡県北九州市小倉北区室町1丁目1−1】

【立地】平城
【別称】勝山城・指月城・湧金城・勝野城・鯉ノ城
【天守の構成・形式】連結式層塔型天守

【歴史】小倉城の前身は、文永年間(1264〜1274年)頃の緒方大膳惟重の居城とも、菊池武光
〔1319?〜1373年〕の三男弥太郎武親の居城とも云われるが、何れも後世の小倉城に結び付く
ものではなく、定まらない。1570年高橋鑑種が現在の小倉城本丸辺りを居城としていたことは確か
なようだ。1586年大友宗麟は島津勢に圧迫され、豊臣秀吉に援助を求めた。これを機に秀吉は九州
征伐を企て、1587年自ら大軍を率いて小倉城へ入城。この時の小倉城主鑑種の養子高橋元種は秀吉
の軍門に降っている。九州平定後の論功行賞で、豊前国企救・田川2郡6万石を毛利勝信〔吉成〕に与
え、小倉城に置いた。「文禄の役」(1592〜1593年)の際、勝信は四番隊将として出兵、「慶
長の役」(1597〜1598年)にも出兵したが、1600年「関ヶ原の戦い」の際、西軍で参戦中
、中津城主黒田孝高(如水)に小倉城を奪取され、毛利勝信・勝永父子は土佐国へ配流となった。如水
が筑前国福岡へ移ると、丹後国宮津18万石から細川忠興が豊前国国東・速見2郡39万9000石を
領有して中津城へ入り、弟興元を小倉城に置いた。1601年興元が兄忠興に不満を抱いて大坂へ出奔
すると、忠興は居城を中津城→小倉城へ移した。直ぐに城の改修・拡張を行い、1602年1月着工、
11月下旬に忠興が入城、1607年5重の天守を持つ城が完成した。1619年忠興は隠居〔中津城
〕し、三男忠利が家督を継ぐが、1632年10月肥後国熊本54万石へ転封。代わって播磨国明石か
ら小笠原忠真が豊前国企救・田川・京都・仲津・築城・上毛6郡内15万石で入封した。忠真は徳川家
康の曾孫、細川忠利とは義兄弟の関係であり、西国枢要の地であった小倉を中心に小笠原一門〔中津藩
主長次・杵築藩主忠知・忠真の弟龍王藩主松平重直〕を移封するが、これは九州の有力外様大名を監視
する幕府の政治・軍事的配慮によるものであったと云う。1637年「島原の乱」では藩兵830余人
を率いて出陣。1648年小倉東部の足立山麓に家康を供養する妙行寺を建て、1663年明の僧即非
如一を招いて黄檗宗の広寿山福聚寺を建立した。1667年忠真没後、嫡男忠雄が家督を継ぎ、167
1年弟の真方に築城郡内22村1万石を分与し、千束藩を立藩した。忠基を経て、1752年嫡男忠総
が家督を継ぐ。忠総は学問に関心が強く、1758年小倉城三の丸に思永斎を建て、1782年文武教
習の場として、これを拡張して藩校思永館を創建した。藩財政が厳しい中、1777年家老勝手方に犬
甘兵庫知寛が就き、製造・商業税として運上金の徴収と新田開拓を推進した。1790年忠総が没し、
播磨国安志藩主小笠原長逵の次男忠苗が家督を継ぐ。1792年夏の大風雨と秋の虫害で13万石余の
大損耗となったが、犬甘の勝手方の切り回しによって幕府から借財も無く対処した。1795年の大水
害では収封困難を生じたが、犬甘の努力によって 1798年貯銀8000余貫、1799年軍用金1
0万両を蓄えたと云う。ところが、1802年犬甘の政策に対する反動で執務騒動が起こり、犬甘は免
職入牢の上、非命の最期と遂げた。犬甘の自邸から金5万8000両・銀600貫など莫大な私財を蓄
えていたことが判明した。1804年忠苗が致死し、播磨国安志藩主小笠原長爲の子忠固が家督を継い
だ。1837年城内の塩切場より出火、本丸御殿・天守が焼失、天守は再建されなかった。その後、1
843年千束藩主小笠原貞哲の次男忠嘉−1860年播磨国安志藩主小笠原棟幹〔忠幹〕が継いだ。1
863年沿岸防備の為に柴川河口の両岸〔東浦浜・西浦浜〕に砲台築造が始められ、大砲・砲弾・弾丸
の鋳造も行われた。1865年忠幹が没し、1866年6月「第2次長州征伐」では唐津藩主小笠原家
の世子で老中の小笠原長行が長州征伐の総督として小倉城へ入ったが、奇兵隊や長州軍が門司に上陸し
、幕府軍・小倉藩兵を撃破。7月徳川14代将軍家茂が没すると、小笠原長行が密かに小倉を脱出、小
倉藩は長州藩と戦うのは不利と考え、8月小倉城に火を放ち、田川郡香春へ退いた。1867年1月長
州藩と小郡会談が行われ、小倉〔企救郡〕を長州藩に譲渡することで講和が成立した。6月忠忱が家督
を継ぎ、1868年「戊辰戦争」では財政難と闘いながら、新政府の命に従って奥羽へ出兵した。忠忱
は、1869年6月版籍奉還して香春藩知事に任せられ、12月藩庁を豊津に移して豊津藩へ改称、1
571年7月廃藩置県を迎えた。1959年天守を復興。現在は勝山公園の一部となり、石垣、水堀、
土塁、井戸跡などが残る。

【所感】この日、中津城〔大分県〕を訪ねた後の小倉城でした。北九州市役所の南辺りから入る勝山公
園地下駐車場に車を止め、市役所横から地上に出て小倉城天守へ向います。現在、城の雰囲気が残って
いるエリアは、模擬建造物の着見櫓・天守・続櫓が建つ「本丸」、本丸の南に位置する白洲灯台が在る
「松の丸」、八坂神社・小倉祖霊殿が建つ「北の丸」、北の丸の東に位置する「下台所」、小倉城庭園
が在る「下屋敷」などが堀や石垣に囲まれて在ります。南方から天守を見ると、背後に「小倉D.C.
TOWER」や「リバーウォーク北九州」の近代建築物が建ち、情緒ある写真を撮るのも難しくなって
きました。これも時代の流れでしょうか。この日は小倉駅近くのビジホに泊りましたが、城内で長話を
した人に飲食店の場所を聞いて、ビール+モツ炒め+餃子、締めに豚骨ラーメンを食べて寝ました。


 

 



復興 四重五階 小倉城天守


 

鉄門跡〔写真:左〕西ノ口門跡〔写真:右〕

 

槻門跡〔写真:左〕大手先門跡〔写真:右〕

 

大手門跡〔写真:左〕虎ノ口門跡〔写真:右〕

 

多聞口門跡〔写真:左〕井戸跡〔写真:右〕

 

本丸西端の石垣と水堀〔写真:左〕松の丸西端の石垣〔写真:右〕



松の丸東端の石垣