陸奥 小峰城
Komine castle

小峰城・二の丸茶屋【福島県白河市郭内1−73】

【立地】丘城
【別称】白河城・白河小峰城

【国指定史跡】小峰城跡

【歴史】興国年間(1340〜1345年)頃、結城親朝の築城が始まりとされる。以後、代々小峰氏
を称する。親朝の次男朝常は足利尊氏と弟の直義が対立すると、直義に与して南朝方に属し、白河城の
兄顕朝と対立した。その後、足利尊氏の誘いで北朝方に降ったが、惣領家とは勢力が伯仲していた。7
代朝修の時、小峰氏は一時断絶するが、5代直親の娘が惣領家の政朝の夫人となり、その孫義親が小峰
氏を再興した。天正年間(1573〜1592年)初期、惣家の義顕を追って義親が惣領となったが、
佐竹義重に圧迫され、義重の子義広を養子に迎えて家督を譲った。そして、伊達政宗が南下すると、そ
れに従った。1590年「小田原城攻め」の際、結城義親は参加しなかった為、秀吉の奥州仕置で領地
を没収。会津藩主となった蒲生氏郷の支配領となり、関一政が4万8000石で小峰城へ入った。15
98年上杉景勝領、1601年蒲生秀行領となり、小峰城に城代が置かれた。1627年会津の蒲生家
断絶後、陸奥国棚倉から丹羽長重が10万700石余で小峰城へ入り、白河藩を立藩。安土築城の普請
総奉行を務めた丹羽長秀を父に持つ長重は、独立丘に築かれた小峰城を修築。城域を拡張して居城を築
き、阿武隈川を北方に掘り替える工事を施し、城下町を造成した。1643年長重の子光重の時、陸奥
国二本松城へ転封となり、上野国館林より榊原忠次が入封して14万石を領した。1649年忠次は播
磨国姫路へ移り、越後国村上から本多忠義が12万石で入封。1662年忠義の子忠平が襲封すると、
弟忠利に陸奥国石川1万石、忠以に陸奥国浅川1万石を分知して、支藩の石川藩・浅川藩を置いた。1
681年奥平松平忠弘が15万石で入り、養子忠尚に白河郡内2万石を分知して、支藩の白河新田藩を
置く。1692年結城松平直矩15万石−基知−義知、1741年久松松平定賢11万石−1783年
定信−1812年定永、1823年阿部正権11万石−正篤−正瞭−正備−正定−正耆−正外と続いた
が、何れも養子であった。1866年正静は陸奥国棚倉10万石へ移り、白河は幕領となり、二本松藩
丹羽家の預かりとなる。1868年阿部氏が再入封となるが、戊辰戦争で戦火を浴びて廃墟と化し、1
871年廃藩置県を迎える。1991年三重櫓・1994年前御門が木造復元され、2010年国史跡
に指定されている。現在は城山公園となり、曲輪、石垣、水堀、土塁などが残る。

【所感】福島県で初めて訪ねた城です。阿武隈川と東北本線に挟まれた城山公園が小峰城跡です。現在
、東日本大震災の影響で崩れた石垣を修復している為、見て周れるエリアが制限されてます。三重御櫓
は天守のように高く立派で、その横の前御門と合わせていい感じで復元されています。本当は北側の水
堀や石垣もしっかり撮りたかったのですが、この後、二本松城跡→会津方面へ行く予定があったので、
断念しました。東北沖を台風が通っていたこともあり、遠征で快晴はラッキーでした。



 

史跡 小峰城址の石碑・二の丸〔写真:左〕清水門跡西側の水堀と石垣〔写真:右〕

 

清水門跡から見た石垣〔写真:左〕本丸桜門跡〔写真:右〕





三重御櫓と前御門・本丸


 

三重御櫓1階の様子〔写真:左〕三重御櫓2階の様子〔写真:右〕

 

切妻破風の間・三重御櫓2階〔写真:左〕三重御櫓3階から見た階段〔写真:右〕

 

三重御櫓・本丸



本丸南端の石垣