尾張 宮後城
Miyaushiro castle

 宮後城跡【愛知県江南市宮後町上河原・八幡】
宮後八幡社【愛知県江南市宮後町八幡79】
  秋葉寺【愛知県江南市宮後町八幡81】

【立地】平城
【別称】安井屋敷・蜂須賀家屋敷・蜂須賀小六邸

【歴史】応永年間(1394〜1398年)頃、安井小次郎が城代として入ったことに始まり、後に安
井弥兵衛代々の居城となる。天文年間(1532〜1555年)、蜂須賀小六正勝〔1526〜158
6年〕の母が弥兵衛の娘であったことから、小六が木曽川以南の川並を支配した。若年期は木曽川の水
運業で利益を得ていたようで、斉藤氏、織田氏に一時的に仕えるものの、主に独立勢力と存在した。1
566年頃、藤吉郎の墨俣城築城で活躍して以来、秀吉の家臣として中国攻めなどに参戦。嫡男家政も
父と共に信長、秀吉に仕え、1583年「賤ヶ岳の戦い」に参戦し、1584年播磨国佐内郡内300
0石を得、1585年「紀伊雑賀攻め」「四国征伐」で武功を挙げ、正勝は阿波国18万石を与えられ
たが、家督を譲って家政が得るところとなる。1600年「関ヶ原の戦い」の際、家政は阿波国を豊臣
秀頼に返上し、自身は出家して高野山に入った。中立的な立場をとったが、嫡男至鎮を東軍に参加させ
、戦功によって所領を安堵された。1615年「大坂夏の陣」の後、淡路国を加増され、25万700
0石の大名となる。その後、蜂須賀家代々の居城となり、忠英−光隆−綱通−綱矩−宗員〔正員〕−宗
英−正泰〔宗鎮〕−頼央〔至央〕−重喜−治昭−斉昌−斉祐を経て、茂韶で明治を迎えた。現在は住宅
に変わり、県道沿いに碑が立つ。


【所感】県道64号線宮後信号を犬山方面へ150m程進んだ左手に蜂須賀家政公誕生之地の石碑と歴
史看板、右手に宮後城跡の木碑が立っています。木碑にも書いてありますが、この木碑の横道を入ると
、宮後城について詳しく書かれた看板が在ります。秋葉寺の西隣りに宮後八幡社が在ります。こちらは
宮後城の出城とも宮後砦とも云われ、本殿を囲む丸石の石塁が砦の雰囲気を出しています。



 

蜂須賀家政公誕生之地の石碑・県道64号線沿い〔写真:左〕宮後城跡の木碑・県道64号線沿い〔写真:右〕


 

宮後城跡の説明看板〔写真:左〕宮後砦跡・八幡社の石塁〔写真:右〕