美濃 久々利城
Kukuri castle

  久々利城跡【岐阜県可児市久々利】
可児郷土歴史館【岐阜県可児市久々利1644−1】
    東禅寺【岐阜県可児市久々利1655】

【立地】丘城

【歴史】延元、正平年間(1336〜1370年)、土岐伊予守頼清の三河守康貞の築城と
云われるがハッキリしない。康貞の子行春は地名の久々利をとって久々利太郎と名乗った。
久々利氏は代々「悪五郎」「三河守」を称した。天文、永禄年間(1532〜1570年)
、悪五郎は金山城主斎藤政義に属したが、1548年久々利城で政義を謀殺した。後の金山
城主は信長の武将森可成、長可となったが、1582年「本能寺の変」で信長が討たれると
、長可は加茂、土岐郡の平定を志した。1583年森長可は5代悪五郎頼興を金山城内で謀
殺し、久々利城は落城、久々利土岐氏は断絶となった。久々利城は長可の家臣戸田基左衛門
に守らせたが、1600年に廃城となった。現在は曲輪、土塁、堀切、井戸跡が残る。

【所感】県道84号線沿いの可児郷土歴史館が駐車場、その北西、県道84号線沿いに久々
利城跡の登城口・石碑・歴史看板が在ります。石段を上がると大手虎口、次に井戸跡→枡形
虎口→三の丸→二の丸→本丸→土橋→北の丸→見張台→二重堀切→堀切の順に在ります。U
の字尾根に遺構が残り、東禅寺側にも登城口が在ります。以前とは違って木々が取り除かれ
、登城道・曲輪などが整備され、一般の方でも訪ねやすい城跡になりました。







県道84号線沿いの登城口



大手虎口



井戸跡



三の丸から見た枡形虎口



二の丸から見た三の丸



本丸から見た二の丸と三の丸





本丸





土橋





本丸−北の丸間の腰曲輪





北の丸



北の丸から見た見張台の切岸



東西に長い見張台



見張台北側の二重堀切1本目



見張台北側の二重堀切2本目



久々利城跡北端の堀切



東禅寺登城道最初の堀切



東禅寺登城道の入口