駿河 丸子城
Mariko castle

    丸子城跡【静岡県静岡市駿河区丸子】
体験工房駿府匠宿【静岡県静岡市駿河区丸子3240−1】
 和菓子茶処吾作【静岡県静岡市駿河区丸子2989−3】

【立地】山城
【別称】鞠子城・宇津谷城・赤目ヶ谷砦・三角城・三角山城

【歴史】南北朝時代、丸子から宇津ノ谷に掛けて斎藤加賀守一族の支配地であり、斎藤氏は
泉ヶ谷に居館を構え、今川家臣として西駿河を護ったと云う。1568年甲斐武田軍の駿河
侵攻に伴い、当地も武田氏の勢力下となり、山県昌景らが在城して今川方に備えた。157
0年駿河国を手中に収めた信玄は丸子城に緒賀兵部大輔、関甚五兵衛を在番として置き、1
578年頃、城将は屋代勝永に代った。この間、丸子城の大改修が行われる。1580年「
第二次高天神城の戦い」の際、徳川軍の兵糧攻めで徐々に兵士の士気が下がり、1581年
3月武田軍は高天神城、丸子城を徳川に明け渡して退去した。1582年廃城。現在は曲輪
、土塁、空堀、竪堀、堀切、土橋が残る。


【所感】登城道は複数有りますが、私は体験工房駿府匠宿から登り、15分程で丸子稲荷神
社奥宮が鎮座する駐屯地〔外曲輪〕に着きました。丸子城跡は外曲輪→大手曲輪→繋ぎの曲
輪→北曲輪→繋ぎの曲輪→二の曲輪→本曲輪の順で並ぶ連郭式縄張りで、曲輪は堀切や竪堀
で仕切られています。曲輪の土塁は東側に無く〔本曲輪を除く〕、西側・北側に築かれ、ど
の方角を意識して築かれたかよく分かります。本曲輪周りは見所がいっぱい。防御が固く、
四方から敵兵の情報が入りやすい構造になっています。南東尾根に4つの腰曲輪、南方尾根
に2つの腰曲輪、北東方面は喰い違い虎口を下りた腰曲輪が南北に分かれ、その外側に監視
台のような大鑪曲輪、竪堀や横堀も複雑に絡んでいます。東側斜面に造られた武者走りは、
有事の人員増減、情報伝達を容易にしています。二の曲輪の西側に長く連なる横堀は、堀を
城兵が動き、土塁を銃座に広範囲で敵兵を迎え撃つことが出来、背後の曲輪も利用すれば、
二重の隊列が組めます。こんな感じで勝手に想像していますが、想像を掻き立てられる城で
あることは間違いありません。





登城口



登城道



駐屯地・外曲輪






大手曲輪を囲む横堀



大手曲輪手前の土橋



大手曲輪



大手曲輪−北曲輪間の曲輪



北曲輪北端の土塁





北曲輪



北曲輪西側の土橋





北曲輪−二の曲輪間の曲輪





二の曲輪





東斜面の武者走り



二の曲輪−本曲輪間の堀切止め(土塁)



二の曲輪−本曲輪間の堀切



本曲輪桝形虎口



本曲輪平虎口



本曲輪平虎口を出た腰曲輪1



腰曲輪2



腰曲輪3



腰曲輪4



腰曲輪5



本曲輪



本曲輪喰い違い虎口



本曲輪喰い違い虎口から降りた腰曲輪



腰曲輪から見た大鑪曲輪(出曲輪)東側の横堀



大鑪曲輪(出曲輪)東側の横堀から竪堀へ



大鑪曲輪(出曲輪)と堀




大鑪曲輪(出曲輪)の北側を囲む三日月堀



大鑪曲輪横から北西に延びる長い竪堀



二の曲輪西側のS字土塁



S字土塁から落ちる竪堀



二の曲輪西側の土塁と横堀





横堀の途中に在る物見曲輪





物見曲輪北側の横堀と土塁



北曲輪北側の堀切