讃岐 丸亀城
Marugame castle

丸亀城跡【香川県丸亀市一番丁】

【立地】平山城
【別称】亀山城・蓬莱城

【国指定史跡】丸亀城跡
【国重要文化財】丸亀城天守、大手一の門、大手二の門

【歴史】1587年7月、播磨国赤穂6万石城主生駒雅楽頭親正が秀吉より讃岐一国17万
3000石を与えられ、東讃の引田城へ入り、1588〜1590年高松城を築いて移った
。1597年西讃の押さえとして、亀山〔標高66m〕に生駒親正・一正父子が築き、16
02年に完成したと云われる。1600年「関ヶ原の戦い」の際、親正は西軍に与するが、
病気と称して出陣せず、嫡男一正は徳川方に属して戦い、戦後、所領を安堵された。一正は
高松城を居城とした為、丸亀城は佐藤掃部・一正の子正俊などの城代が置かれた。1615
年一国一城令で丸亀城は廃城になる。正俊−高俊と続いたが、高俊は暗愚で怠慢であった為
、家臣が二派に分かれて対立〔生駒騒動〕が起こり、幕府の処分で、1640年生駒高俊は
出羽国由利郡矢島1万石へ移封となった。生駒氏改易後、讃岐国は三分割され、西条藩主一
柳直重・大洲藩主加藤泰興・今治藩主松平定房の預り地となる。1641年西讃地方に肥後
国天草郡富岡城主山崎家治が丸亀城へ入り、丸亀藩5万石を立藩。1643年丸亀城再建に
着手。家治の後、俊家−治頼と続くが、1657年3月治俊が僅か8歳で病没し、世継ぎ無
く改易となった。治頼の後見で叔父豊治が備中国成羽5000石を分与され、家名は存続し
た。山崎氏除封後、一時、幕府領となるが、1658年播磨国龍野より京極高和が6万石余
で入封。1660年丸亀城天守を完成させ、城下町の整備・新田開発にも力を注いだ。16
62年9月高和が没し、嫡男高豊に継がれ、弟高房に3000石を分与したが、高房没後に
返還された。1664年1400石加増。1694年3歳の高或が家督を継ぐが、父高豊の
遺志により庶兄高通に1万石を分与し、多度津藩を立藩した。高或の後、高矩−高中−高朗
−朗徹と続き、1871年廃藩置県を迎える。1943年天守が国宝に指定されるが、19
50年法改正により天守は国重要文化財となる。1953年丸亀城跡が国史跡、1957年
大手門一の門〔太鼓門〕・二の門が国重要文化財に指定される。1919年以来、亀山公園
として公開され、現在は天守、門、曲輪、石垣、井戸跡などが残り、特に石垣は見事な反り
と高さがある。


【所感】2度目の訪城です。1回目は観光で来ていた為、隅々まで時間を掛けて回れません
でしたが、今回は3時間半掛けて水堀から順に撮って行きました。ただ、三の丸の南西、坤
櫓跡辺りの石垣が崩落しており、立入禁止になっていたことが悔やまれます。前日の夜、夕
食で出かけた際にライトアップが見えたので、少しだけ撮ってみました。





丸亀城



西土橋



常磐橋



東土橋



東水堀



みその橋



北水堀





大手門【国重要文化財】



大手二の門【国重要文化財】





大手一の門(太鼓門)【国重要文化財】



廊下橋



番所と御殿表門



山下御殿跡・山下曲輪



見返り坂



三の丸北東角の石垣



屏風折れの石垣・三の丸北西



三の丸



三の丸石垣と二の丸石垣



戌亥櫓跡・三の丸北西角



月見櫓跡・三の丸南東角



三の丸北東の物見台



三の丸井戸跡



二の丸搦手



二の丸大手櫓門跡




二の丸井戸跡



二の丸辰巳櫓台



二の丸五番櫓台



二の丸番頭櫓台(鬼門櫓台)



本丸虎口



本丸潮櫓台



本丸宗門櫓跡



本丸多門櫓跡



本丸姫櫓跡



本丸姫櫓台






三重三階 天守【国重要文化財】・本丸



天守一階・本丸



天守二階・本丸



天守三階・本丸



三の丸搦手門跡



搦手の坂道(旧大手門跡か)



栃の木御門跡・搦手