筑後 三池陣屋
Miike jinya

三池陣屋跡・三池小学校【福岡県大牟田市新町289-1】
   三池炭鉱万田抗跡【熊本県荒尾市原万田200-2】
   三池炭鉱宮原抗跡【福岡県大牟田市宮原町1丁目86-3】
        三池港【福岡県大牟田市新港町】

【立地】平地

【歴史】1621年立花種次が三池郡15ヶ村において三池藩1万石を立藩、三池に陣屋を
構えたことに始まる。大友氏の一族万田鎮種は、大友宗麟に滅ぼされた筑後国の名族高橋氏
の名跡を継ぎ、筑前国岩屋城に拠ったが、1587年子の直次〔立花宗茂の弟〕は豊臣秀吉
の九州平定後、筑後国三池郡江浦1万8000石を安堵され、1595年居所を三池郡内の
山城に移した。1600年「関ヶ原の戦い」で直次は西軍に与して失領、宗卜と号して浪人
となった。宗卜は後に徳川家康に仕え、1614年常陸国筑波郡柿岡5000石を得た。1
620年立花宗茂が柳川城主10万9000石になると、弟直次に1万石の分与を許される
が、江戸で病没。その子種次が1万石を領有した。種長-種明を経て、貫長の時、1738
年三池稲荷山で石炭の採掘が始まり、1790年石山法度が制定されて三池炭鉱の基礎が築
かれた。長凞を経て、家督を継いだ種周は1789年大番頭、1792年奏者番・寺社奉行
、1793年若年寄に就いたが、老中松平信明との政争に巻き込まれ、信明と敵対した一橋
派・大奥方に加担した為、1805年解任、蟄居謹慎を命ぜられた。1806年嫡子順之助
〔種善〕は陸奥国下手渡1万石へ転封、三池藩領は西国筋郡代支配となり、1816年柳川
藩預かりとなった。1832年種温が継ぎ、1851年下手渡藩1万石のうち3078石を
返上し、代わりに旧領三池5ヶ村〔今山・三池新町・稲荷・下里・一部〕5000石が種恭
に与えられた。1868年種恭は居所を下手渡から三池へ移し、三池藩を再立藩するが、1
869年版籍奉還となる。現在は小学校となり、井戸跡、橋が残る。

【所感】陣屋は小学校となり、井戸跡が2つ、大手橋となっていた眼鏡橋が残るのみですが
、2015年世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石
炭産業」で再び三池の石炭産業〔三池炭鉱・三池港〕が脚光を浴びることになります。大牟
田に初めて来ましたが、陣屋跡に来た意味があったと思っています。




大手橋(眼鏡橋)




三池藩主居館跡の看板・三池小学校



二の井戸



三池藩陣屋跡の標柱・三池小学校