三河 三方原古戦場
Mikatagahara battleground

   三方原古戦場【静岡県浜松市中区・北区】
三方原古戦場の石碑【静岡県浜松市北区根洗町】
   犀ヶ崖資料館【静岡県浜松市中区鹿谷町25−10】
      宗源院【静岡県浜松市中区蜆塚1丁目20−1】

【立地】台地

【歴史】1572年徳川家康が武田信玄に大敗した戦である。1572年12月22日早朝
、二俣城を進発した武田信玄軍2万7000は天竜川を挟んで二手に別れて南進。鹿島、神
増付近で再び合流し、浜松方面へ南下した。午後12時頃、家康の浜松城を襲うと見せかけ
て武田軍は欠下辺りで急に方向を転じ、北西の祝田方面へ軍を進めた。一方、浜松城の家康
は信長から援軍3000〔佐久間信盛・平手汎秀・水野信元〕を得ていたが、それでも総勢
1万1000。城を囲まれたら籠城しかないと思っていた徳川軍、こうまでされたら出撃せ
ざるを得ず、機会を見て背後から攻撃出来るよう、距離を保ちながら慎重に軍を進めた。午
後2時頃、三方原台地を抜けて祝田へ向かうと思われた武田軍は急に反転し、「魚鱗の陣」
を布いた。徳川軍は「鶴翼の陣」を展開。これまでの武田軍の動きは家康を浜松城から誘き
出す目的だった。午後4時頃、武田軍前衛の小山田信茂隊が砂礫〔砂や小石〕を投げて徳川
軍を挑発、中央の石川数正勢隊がこれに乗せられ、制止も聞かずに敵軍へ向い、それに引き
摺られる形で戦闘が開始された。しかし、兵力の差は歴然、徳川軍は至るところで敗れ、夏
目吉信を身代わりに家康は単騎、浜松城へ逃げ帰った。徳川家康を撃破した武田信玄は、そ
の後、三河へ侵攻したが、野田城落城後、持病の悪化を理由に甲斐へ撤退途中、信濃国駒場
で没した。現在、三方原墓園駐車場に三方原古戦場の石碑、犀ヶ崖資料館前に三方原古戦場
犀ヶ崖の石碑が立ち、周辺に多くの史跡が在る。

【所感】戦地であった三方原台地は三方原町を中心とする浜松市北区の南端で、現在は北へ
向かって放射状に道が広がっているエリアになります。三方原墓園駐車場に「三方原古戦場
の石碑」、浜松城へ敗走する家康を追撃してきた山県昌景隊を混乱させた犀ヶ崖にも「三方
原古戦場犀ヶ崖の石碑」が立っています。犀ヶ崖には犀ヶ崖資料館が在り、係の方が三方ヶ
原の戦いについて詳しく説明して頂けます。資料館の周辺にはしんがり役で亡くなった夏目
次郎左衛門吉信、本多肥後守忠真〔本多忠勝の叔父〕の石碑、戦死者である成瀬藤蔵正義、
外山小作、遠藤右近の墓は宗源院に在ります。他にも両軍ゆかりの地が沢山在り、一度二度
では周りきれません。これからも機会ある度に訪ねてみたいと思います。




三方原古戦場の石碑・三方原墓園駐車場





現在の犀ヶ崖・用水路・犀ヶ崖資料館



三方原古戦場犀ヶ崖の石碑・犀ヶ崖資料館



史跡 犀ヶ崖の石碑・犀ヶ崖資料館



大島蓼太の句碑



夏目次郎左衛門吉信旌忠碑



本多肥後守忠真顕彰碑・犀ヶ崖資料館


 

成瀬隼人藤蔵正義御墓所・宗源院〔写真:左〕遠山右近・外山小作藤原正重御墓所・宗源院〔写真:右〕