伊勢 峯城
Mine castle

峯城跡【三重県亀山市川崎町】

【立地】丘城

【県指定史跡】

【歴史】安楽川と八島川の合流点に向かって伸びる丘陵の南端〔標高83m・比高40m〕
に築かれた平山城で、1367年関四郎盛政の五男政実が築き、峯氏の祖となる。築城は元
弘年間(1331〜1334)とする説もある。峯氏は越前守政実→長門守→主水佐→但馬
守→大和守→越前守盛憲→大和守盛定→治部少輔盛益→盛祐→盛治と続いた。関家・神戸家
・峯家は近江六角家と関係を持っていたが、1568年織田信長の伊勢侵攻により、神戸信
孝に属した。1574年7代盛祐が伊勢長島で討死、弟与八郎が幼少であった為、岡本下野
守宗憲が城主となった。別の史料では峯信濃守盛治〔与八郎〕が峯城主として健在で、15
84年美濃国加賀野井の戦いで討死し、峯家は断絶したとある。1583年亀山城主関安芸
守盛信の家臣葉若藤左衛門は滝川一益と通じ、岡本下野守の峯城と攻め、滝川一益の甥儀太
夫の手に落ちた。豊臣秀吉は大軍を率いて河崎村に対峙し、数ヶ月間包囲の後、儀太夫を下
して織田信雄の家臣佐久間正勝を入れた。1584年4月豊臣秀吉と織田信雄が不仲となり
、秀吉の家臣蒲生氏郷・関長門守に命じて峯城を落とし、廃城になったと云う。1969年
県指定史跡。現在は山林、竹林となり、曲輪、土塁、堀切、井戸跡が残る。

【所感】峯城跡は県指定の史跡になっていますが、城域の大半が私有地で、本丸までの登城
道のみ地元保存会の方々によって整備されています。現地へ行くと、曲輪の名前は本丸のみ
で、その他の曲輪に名前が無い為、参考にした縄張図の郭名をそのまま使っています。曲輪
の配置は、本丸の南にV郭、西にW郭、堀切を経て北にX郭、更に谷を挟んだ北にZ郭とい
う並びで、南北に長い縄張になっています。登城口は複数あり、私は駐車スペースがある北
登城口から入りました。本丸から最も遠いZ郭は南東の枡形虎口以外は全て土塁に囲まれ、
他の曲輪とは違う造りとなっています。Z郭の枡形虎口を出ると、東に土塁が続き、墓地に
近い場所にかんざし井戸があります。保存会の人の話ではZ郭は信長侵攻の後に築かれた新
しい曲輪とのこと。Z郭から谷の脇を通ってX郭へ。X郭は西端に巨大な土塁が横たわり、
北と南の2ヶ所に虎口を持っています。北端にも低い土塁が残り、X郭内は段差を設けた3
つの区画に別れ、東方には細い尾根の先に小さな曲輪があります。その先も続くので、ココ
が古い時代の大手道だったとも言われています。X郭から登城道を南へ下ると、W郭が本丸
西側に広がり、直ぐ左に本丸−X郭を遮断する大きな堀切がありますが、そのまま横堀とな
ってX郭の東側に回り込んでいます。W郭は南北に長く、北半分は草地、南は林になってお
り、西端に低い土塁が残っています。少し進むと、伊勢亀山城建設時に持ち出された石垣の
栗石が足元に沢山転がっています。更に本丸に沿って歩いた先に見えてくる竹林がV郭です
。本丸の次に広い曲輪です。本丸は東と南に虎口を持っていますが、東虎口は荒れて入れな
いので、私は南虎口から入りました。本丸内の南エリアが杉林、北エリアは荒廃地、南・西
・北を囲む土塁は高さもあって良好な遺構です。土塁上は歩くことが出来、伝天守台や北西
隅櫓台も確認出来ます。いつか地主さんの許可が下り、城域全体の遺構が確認出来るように
整備されることを祈っています。





峯城跡北登城口



墓地に上がらず左折



城跡入口



かんざし井戸





かんざし井戸→枡形虎口までのアプローチ





枡形虎口



Z郭から見た枡形虎口



Z郭内部



Z郭西端の土塁



郭外から見たZ郭南端の土塁



Z郭の土塁上に建つ鉄塔



X郭へ入る手前の道



X郭の枡形虎口



X郭西端の大土塁



X郭内部



X郭北端の土塁



X郭の東方に伸びる細長い道と先端の小曲輪



X郭西端の大土塁と西側の登城道



X郭南西端の虎口



X郭−本丸間の堀切



W郭内部



W郭西端の土塁



V郭内部



本丸虎口前の郭



本丸虎口跡





本丸内部



本丸南西端の土塁



本丸西端の伝天守台



本丸西端の土塁



本丸北西角の櫓台