常陸 水戸城
Mito castle


         水戸城跡【茨城県水戸市三の丸】
      茨城県立図書館【茨城県水戸市三の丸1丁目5-38】
     市立三の丸小学校【茨城県水戸市三の丸1丁目6-51】
      弘道館鹿島神社【茨城県水戸市三の丸1丁目6-4】
          弘道館【茨城県水戸市三の丸1丁目6-29】
      市立第二中学校【茨城県水戸市三の丸2丁目9-22】
茨城大学付属小学校・幼稚園【茨城県水戸市三の丸2丁目6-8】
   県立水戸第三高等学校【茨城県水戸市三の丸2丁目7-27】
   県立水戸第一高等学校【茨城県水戸市三の丸3丁目10-1】
       水戸黄門神社【茨城県水戸市三の丸2丁目4】
          偕楽園【茨城県水戸市常盤町1丁目3-3】


【立地】丘城
【別称】馬場城・佐竹城

【県指定有形文化財】旧水戸城薬医門
【国特別史跡】旧弘道館
【国重要文化財】旧弘道館(正庁、至善堂、正門附塀)
【国名勝】常盤公園〔偕楽園〕
【国指定史跡】常盤公園〔偕楽園〕


【歴史】建久年間(1190~1198年)、馬場資幹の築城とされる。南北朝時代、馬場
氏は足利尊氏に従って勢力を振るい、1400年馬場城の大修築を行う。1416年「上杉
禅秀の乱」で馬場満幹は上杉方に属したが、1417年幕府軍の攻撃で上杉軍は敗走、満幹
も降服した。足利持氏は江戸通影に馬場城を与えたが、馬場満幹は抵抗。1426年江戸通
影の子通房は馬場満幹が不在の間に馬場城を奪取した。その後、江戸氏は近隣の豪族を次々
と平らげ、1510年江戸通雅・通泰の代には主家の佐竹氏と同格の地位に就いた。149
6年城を大修築し、馬場城から水戸城へ改称。1590年江戸重通は「小田原征伐」に参戦
しなかった為、常陸国太田城主佐竹義宣の攻略を受けて没落、1591年佐竹義宣は水戸城
へ入り、父義重は太田城主に留まった。同年、義宣は豊臣政権下の大名として、小田原に参
陣しなかった常陸国南部の諸将を太田城に招集して殺害、参陣はしたものの反抗の気構えを
見せる額田城主小野寺照通を攻め滅ぼし、領国統一に乗り出した。1592年「朝鮮出兵」
の際、義宣は3000の兵を率いて肥前国名護屋へ遠征し、家臣1400名余を渡海させた
。1594年佐竹領の総検地が行われ、常陸国10郡と陸奥国・下野国、江戸崎領合わせて
54万5700石を領有したが、1600年「関ヶ原の戦い」の際、義宣は徳川家康の催促
に応じず、会津の上杉景勝に通じながら兵を出さなかった為、1602年出羽国秋田・仙北
郡25万5800国余へ転封となった。替わって徳川家康の五男武田信吉が15万石で入封
したが、1603年病没の為、家康の十男頼将〔後の紀伊国和歌山藩主徳川頼宣〕が20万
石で入った。1604年常陸国久慈郡保内と下野国那須郡武茂で5万石を加増された。頼将
は家康在城の駿府に身を置き、伊那忠次や彦坂元正が水戸領内の支配に携わっていたが、1
609年駿河・遠江・三河国内50万石を得て駿府城へ入った。頼将の後、常陸国下妻から
家康の十一男頼房が7歳で入封、水戸25万石を領することとなり、明治廃藩まで頼房の系
統が水戸藩主として続いた。頼房も頼将と同じく、1616年家康が亡くなるまで駿府に在
城し、家康没後は江戸へ移った。尾張徳川義直・紀州徳川頼宣・水戸徳川頼房は家康在世中
から別格の扱いを受けており、御三家の格式が定まったのは寛永年間(1624~1644
年)と云う。1622年多賀郡松岡の戸沢政盛が出羽国新庄に移され、松岡領3万石の加増
で水戸藩は28万石となった。御三家の尾張〔61万石〕や紀州〔55万石〕に比べ半分程
の所領であり、官位も従二位権大納言に対して従三位権中納言であったが、水戸は将軍家の
選任に関わる立場に置かれ、「天下の副将軍」と称されることもあった。また、1635年
「武家諸法度」改正による参勤交代制度に於いても、水戸藩は幕府の許可を得て、不定期に
短期間国入りするほかは、常に江戸藩邸に在って藩政の指揮を執る定府制が認められていた
。1641年総検地により内高は36万9400石余、1701年35万石となる。166
1年頼房が没し、四男頼元が那珂郡額田に新田2万石、五男頼隆が久慈郡保内など新田2万
石を分与、1700年ともに同じ石高で新領を与えられ、頼元は陸奥国守山藩、頼隆は常陸
国府中藩を立藩し、旧領は本家へ返納された。また、1682年六男頼雄は茨城郡内1万石
で常陸国宍戸藩を立藩した。頼房が藩政の基礎を固めた跡を継いで、その安定と強化を図っ
たが2代光圀であった。1628年光圀は側室の三男として生まれ、1633年嗣子となり
、1661年34歳で藩主となった。1657年光圀は「大日本史」の編纂に着手。170
0年光圀が没し、本紀73巻、列伝170巻から成る「大日本史」は、1715年3代水戸
藩主綱条〔高松藩主松平頼重の子〕の代で完成した。その後、1718年宗堯-1730年
宗翰-1766年治保-1805年治紀-斉脩を経て、1829年弟の斉昭が継ぎ、184
1年藩校弘道館を設立。尊王攘夷論を発展させて吉田松陰ら幕末の思想家を先導したが、1
847年熱が入り過ぎて幕府より謹慎処分を命ぜられた。1844年慶篤に継がれたが、1
853年ペリー来航後、斉昭は幕府の海防参与に任じられ、1857年まで軍制強化を中心
とした政治改革を行った。また、1858年将軍継嗣問題や日米修好通商条約調印の可否を
巡って大老井伊直弼と激しく対立し、再び謹慎処分を受けた。水戸藩内では尊攘派と門閥派
の確執が激化し、1860年「桜田門外の変」、1862年「坂下門外の変」に水戸浪士の
水戸浪士の激発を招いた。1868年弟の昭武に継がれ、1871年廃藩となった。195
2年旧弘道館が国特別史跡に指定され、2015年杉山門・柵町坂下門を復元。現在は学校
、図書館などに変わり、薬医門、土塁、空堀などが残る。


【所感】徳川御三家の居城では「水戸城」、日本三名園では「偕楽園」が訪ねていなかった
ので、水戸は念願の場所でした。愛知から電車や車では移動に時間が掛かってしまう為、飛
行機を利用し、成田空港からレンタカーで土浦城・笠間城・小田城も合わせて1泊で遠征し
ました。水戸城は本丸・二の丸・三の丸が順に並ぶ連郭式の縄張りで、本丸・二の丸の殆ど
は学校に変わっていますが、曲輪間を仕切る巨大な堀〔JR・県道〕は非常に深く長く在る
ことに驚きました。三の丸の西側や北側にも空堀の一部が残っています。門は本丸に薬医門
が残り、二の丸は柵町坂下門や杉山門を復元、現在、大手門が工事中です。巨大な曲輪を持
つ水戸城が、更に城らしく感じられるように整備が進むことを祈っております。




旧水戸城薬医門【県指定有形文化財】・県立水戸第一高等学校



本丸虎口跡・県立水戸第一高等学校





二の丸―本丸間の本城橋



二の丸―本丸間の空堀・JR水郡線



本丸月見櫓跡



復元 柵町坂下門・二の丸




徳川頼房公立像・二の丸



復元 杉山門・二の丸



杉山坂・二の丸



二の丸御殿跡・県立水戸第三高等学校



三階櫓跡・二の丸・茨城大学教育学部附属小学校



三の丸―二の丸間の大手橋・工事中



三の丸―二の丸間の空堀跡・県道232号線







三の丸西堀



三の丸北堀



学生警鐘・弘道館・三の丸



弘道館正門【国重要文化財】・三の丸



弘道館正庁・至善堂【国重要文化財】・三の丸





正庁正席の間・弘道館・三の丸



正庁諸役会所・弘道館・三の丸



至善堂・弘道館・三の丸



正庁横の対試場・弘道館・三の丸



菊の間・好文亭・偕楽園



桃の間・好文亭・偕楽園



萩の間・好文亭・偕楽園



桜の間・好文亭・偕楽園



西塗縁・好文亭・偕楽園



楽寿楼・好文亭・偕楽園



助さんと水戸黄門様と格さん・JR水戸駅前



水戸黄門神社・義公祠堂