遠江 水巻城
Mizumaki castle

水巻城跡【静岡県浜松市天竜区佐久間町中部】
 宥泉寺【静岡県浜松市天竜区佐久間町中部778】

【立地】山城か、丘城か
【別称】中部城・中部水巻城

【歴史】佐久間湖の南、大千瀬川も合流する天竜川に囲まれ場所に位置し、水巻はそうした
天竜川が曲がることが語源となっている。築城年は不明。久頭郷〔高根〕城主奥山貞益の時
、弟の定之が水巻城主、定吉が若子城主、定友が小川城主となり、属城を展開。永禄年間(
1548〜1570年)、兄弟不和から定之は信州遠山土佐守と組んで弟の大洞若子城奥山
加賀守定吉を攻めている。1575年「長篠・設楽原の戦い」の翌年1576年正月奥山美
濃守をはじめ右馬助・大隅守・左近将監が没落し、信州へ退いたと云う。城跡の場所は宥泉
寺辺りとも、宥泉寺背後の松山〔標高350m、比高170m〕とも云われ、定まらない。

【所感】天竜川に沿って上流へ走る県道1号線、天竜川に沿って下流へ走る国道473号線
が通る佐久間町中部地区。城跡の場所が分からないので、宥泉寺と松山両方を撮ってみまし
た。松山の北東580mのピーク〔標高390m〕は水巻城の米蔵が在った倉屋敷と呼ばれ
る場所。発掘調査で焼米や鉄砲玉が見付かっており、米蔵と水巻城〔松山〕を結ぶ道が現在
も残っているらしい。そして倉屋敷の旧住所が佐久間町佐久間字城越、字名が城越という点
も興味深い。こうなると、松山が水巻城跡と思いたくなるが、肝心の松山は、狭い平坦地が
有るだけで遺構らしきものが無いらしい。奥山一族の城は高根城〔久頭郷城〕・若子城・小
川城と何れも山城だが、水巻城だけが眺望が悪い平城〔宥泉寺〕というのも腑に落ちない。




龍頭山 宥泉寺・水巻城跡か



松山・水巻城跡か