伊勢 長野城
Nagano castle

    長野城跡【三重県津市美里町桂畑】
桂畑文化センター【三重県津市美里町桂畑1244−3】
    長野神社【三重県津市美里町北長野2129】

【立地】山城
【別称】長野氏城・中根城

【国指定史跡】長野氏城跡(長野城跡、東の城跡、中の城跡、西の城跡)

【歴史】1239年鎌倉幕府の御家人工藤祐経の子祐長が長野の地頭職となって安濃・奄芸
2郡を与えられ、祐長の子祐政が長野に住み、長野氏を名乗ったことに始まる。1274年
2代祐藤が標高540m、比高360mの山頂に長野城を築城、中伊勢で最も古いものと云
う。長野氏は代々分派を重ねて伊勢国中央の勢力を固めた。2代祐藤の子祐高は雲林院家・
祐宗は細野家、4代藤房の子祐歳が家所家、5代豊藤の子藤信は細野家の養子・祐成は分部
家の養子・その他に草生家。6代経藤の子藤照は川北家・藤忠は中尾家などである。134
6年足利方の伊勢国守護高師秋に属し、伊勢国司北畠氏の攻撃で長野城は落城。4代藤房は
自害、その子5代豊藤は京都に逃れた。北畠氏に付いた雲林院出羽守が長野城主となるが、
1352年伊勢守護仁木義長が北畠氏攻略を図り、京都に逃れた5代豊藤を伴って長野城を
奪回、長野氏は再興される。室町期、北畠氏・関氏・赤堀氏などと抗争が繰り返えされたが
、1569年織田信長の長野氏攻略が始まり、信長の弟織田信包を長野工藤氏の養子とする
ことで和睦。1570年信包は上野城の築いて移り、長野城は廃城となる。1982年長野
城+細野城〔東の城跡・中の城跡・西の城跡〕が長野氏城跡と称されて国史跡に指定され、
現在は曲輪、土塁、堀切などが残る。


【所感】国道163号線「みさとの丘入口」信号交差点から1.8キロ北上した三叉路を左折
し、2.6キロ先の桂畑文化センターへ向います。ここから桂畑川に沿いの瀬戸林道を上って
行きます。桂畑文化センターから2.4キロ程走ると、右手に「長野城跡まで2.4K」の看板
が在り、林道の高狭ヶ野線へ入ります。コンクリート路→砂利道→悪路となり、最終地点に
簡易トイレが在る駐車場に着きます(2022年5月の時点では通行止)。駐車場背後の堀
切跡から丸太段を登り、土塁→堀切→横に長い曲輪→腰曲輪→主郭の順で並びます。主郭西
半分は北・西・南を土塁が囲んでいます。主郭奥の一段下がった腰曲輪に城址碑と看板が在
ります。大変見晴らしが良い場所で、高圧電線・鉄塔の向こうには伊勢湾まで見えます。北
東の方向へ降りて行くと、深く掘られた山道が在り、その脇に三段の平坦地が在ります。一
番下の曲輪が最も広く、北側に土塁のような高まりが在ります。以前は登城口が分からず、
遠景写真としていましたが、今回、訪ねることが叶い、遺構が良好であることに驚きと感動
がありました。早く悪路が整備され、一般車でも普通に行けることを望みます。












国道163号線からの道



駐車場と掘切跡



掘切





堀切東側の横に長い腰曲輪



主郭西側の曲輪



主郭西端の土塁



主郭西半分



主郭東半分



腰曲輪に立つ長野城跡の看板と石碑





北東尾根に連なる削平地