三河 長沢城
Nagasawa castle

 長沢城跡【愛知県豊川市長沢町古城】
長沢小学校【愛知県豊川市長沢町午新88】
長沢保育園【愛知県豊川市長沢町午新134−1】

【立地】丘城
【別称】桜ヶ城・長沢古城

【長沢松平家】親則 ― 親益 ― 親清 − 勝宗 − 一忠 − 親広 − 政忠 − 康忠 − 康直 =
       松千代 = 忠輝

【歴史】1458年、標高92mの丘陵端に松平宗家3代信光の子親則〔1436〜1461年〕
が築き、岡崎市岩津より移り住み、長沢松平家の祖となる。(この時期、当地は信光の所領では無
かった為、確証は無い)1462年親則が亡くなり、2代親益−3代親清〔〜1509年3月1日
〕−4代勝宗−5代一忠を経て、1560年6代親広・7代政忠〔〜1560年〕は「桶狭間の戦
い」に参戦したが、7代政忠が討死した。1562年8代康忠〔1546〜1618年8月10日
〕は宝飯郡小坂井・八幡・東条の貝吹・駒場公文給・弾正給・須見の3ヶ所、1566年更に牛久
保を家康より賜る。1570年「姉川の戦い」、1575年「長篠の戦い」、1582年「伊賀越
え」、1584年「小牧、長久手の戦い」に参戦。1590年「小田原城攻め」に9代康直〔15
69〜1593年〕が参戦し、家康関東移封に伴い、武蔵国深谷城1万石を領する。その後、康直
に嫡子が無く、家康の七男松千代〔1599年死去〕、更に家康の六男辰千代が継いだが、161
6年除封となり、嫡流は断絶した。現在は長沢小学校、長沢保育園、国道1号線、古城団地に変わ
り、井戸跡が残る。


【所感】井戸跡は長沢保育園内に在ります。石碑は2ヶ所在り、国道1号線を挟んだ北側の古城団
地内の民家庭、同じく古城団地西の広場下〔国道1号線側〕に在ります。昔、長沢保育園と古城団
地は同じ丘陵でしたが、国道1号線の建設で分断されました。「長沢」と聞くと、豊田市の松平地
区最南端に在る長沢町が気になります。「滝脇松平家」の拠点滝脇町の南隣りに位置し、東、西、
南方向を郡界川が湾曲して囲み、立地としては好条件です。ある本にはそこが長沢松平氏の発祥地
で、後に音羽町の長沢と接合したのではないか?と唱える説もあります。また、親則は1462年
26歳で没し、その4年後の1466年に親益が亡くなり、ここで嫡流が断絶しているはずが、系
図で9代まで続いている辺りを懸念する内容もあります。とにかく謎が多い家柄です。



 

長沢城址の石碑・古城団地〔写真:左〕長沢城跡全景・長沢小学校〜国道1号線〜古城団地〔写真:右〕


 

長沢城門跡の石碑・長沢小学校〔写真:左〕井戸跡・長沢小学校〔写真:右〕

 

長沢城跡の看板・長沢小学校〔写真:左〕長沢城跡の石碑〔写真:右〕